恋は、終わったのです

 sideエマ


「やったわ、伯爵令嬢……!」

 馬車の扉が閉まるや否や、私はセオに飛びつき、思わず抱きしめてしまった。

 ふわりと揺れる馬車の中で、興奮が抑えきれない。セオも驚きながらも、くすりと笑って私を支える。



「エマ、落ち着いて。まだ正式に決まったわけじゃないよ」

「いいえ、もう決まったも同然だわ!」


 私は顔を上げ、嬉しさを隠そうともせずに笑った。セオの方だって、満更でもなさそうな顔をしている。

 誰も見ていないのだし、いいわよね? これくらい――。

 馬車の外では、貴族街の街灯が瞬いていた。ガタゴトと車輪の音が響く中、私は胸の高鳴りを抑えきれない。



 こんなにうまく話が進むなんて思ってもみなかった。今日の午前中までは、怯えていたというのに。

 それが、たった数時間で――伯爵令嬢になれる可能性が生まれた。



 *****



 家に帰ると、両親は驚き、そして――大喜びだった。




「本当かい、エマ!? 伯爵家の養子に……!」

「まあ……! こんなに嬉しいことはないわ!」

「あとから、公爵夫人が連絡をくれるって!」



 お父様は声を震わせ、お母様は感激のあまり私を抱きしめた。温かな腕の中で、私はようやく実感する。これで、私もセオと釣り合うのだと。



「流石、私の娘だわ。こんなにすぐ高位貴族に気に入られるだなんて。でも……娘と住めなくなるのね、寂しいわ……」

 まだ正式に決まったわけでもないのに、もうそんな心配をしている。


「ふふ、すぐに行くわけでもないのに」


 私は軽く笑ってみせる。そう、まだ何も決まっていない。けれど、未来は確実に変わり始めている。





 私の身分は、希望が見えた。

 
 ならば、次は――セオの番。

 
 セオの父とリディアの父を何とかしてもらわなければならない。両名が首を縦に振り円満に解決できなければ、どれだけセオが私を想ってくれても意味がない。



 でも……難しいことは、セオに任せるしかないわ。私はよくわからないもの。

 私は、公爵夫人と交流を重ね、いい関係を築く――。


 今日の様子を見る限り、大丈夫そうよね。夫人は私を気に入ってくださったはず。

 セオに聞いた話では、普段は公爵夫人の方からリディアに話しかけることが多いそう。

 驚いたわ。まさか、公爵夫人に対して受け身の聞き役ばかりで、お高くとまっているだなんて……!



「私なら、そんなことしないわ」



 鏡の前で微笑んでみせる。伯爵令嬢となる未来を思い描きながら――。






 *****




 昨日の出来事が、まだ夢のようだった。だが、確実に私の未来は変わり始めている。


 
「聞いたわよ、エマ。伯爵家に養子に入るのですって!」

 
 そんな声が飛び込んできた。

 やはり――噂が広まるのは早かった。


 朝一番、口の軽い友人に「内緒よ」と言って話した時点で、こうなることは予想済み。
 むしろ、こうなることを期待していた部分もある。

 
 私は微笑を浮かべながら、わざと肩をすくめてみせる。


「まあ、まだ決定じゃないのに。一体誰から聞いたの? それ、内緒にしてね?」

「そうなの? わかったわ。でもすごいじゃない、伯爵家なんて!」


 友人の瞳がキラキラと輝いている。彼女も、それがどれほどの幸運か理解しているのだろう。

 私はわざと謙遜するように、そっと微笑みながら言った。


 
「実は、公爵家にセオが連れて行ってくれた時、夫人に気に入られて――」

「えっ、公爵夫人に!? ますます、すごいわ! ……ねえ、ちょっと待って。公爵家にセオドアが連れて行ってくれたって……それってもしかして――」


 友人の目がいたずらっぽく細められる。

 私は慌てて手を振った。


 
「やだ、リディア様が急に行けなくなったから、その代わりよ」

「そんなこと言って……セオドアとあなたが想い合っていることくらい、みんな知ってるわよ?」

「そんな……本当に? 恥ずかしいわ」


 友人はくすくすと笑いながら、さらに続ける。



「伯爵家の養子になったら、セオドアとの身分差だってなくなるじゃない。このまま結婚だって――」

「だめよ、そんなこと言ったら」


 私は思わず友人の手を取る。


「セオには、リディア様っていう婚約者がいるんだから」

「でも、政略結婚でしょ? それに、冷めた関係だって聞いてるわよ。私たち、2人を応援してるんだから!」


 彼女の言葉に、私は悲し気に目を伏せた。


「ありがとう。でも、私たちのために、絶対何もしないでね」


 私は静かに言った。


「相手は侯爵家よ。逆らったらどうなるか……。あなたたちに迷惑をかけたくないの」

「エマ……」



 友人はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

 私は微笑んで、席を立つ。



「ほら、授業が始まるわ。あなたも席に戻って」


 彼女は、微笑んで席に戻っていく。



 彼女もまた、誰かに言いたくてそわそわしていることだろう。ふふ、いいのよ。休み時間には、今の会話をみんなに広めてちょうだい。





 学院中に私の『変化』が知れ渡る。リディアの耳に入るのもきっと時間の問題ね。


 私の伯爵令嬢としての未来が、もうすぐ、完全なものになる。


 身分差……あんなに偉そうに言っていたのだもの、せいぜい焦ればいいのだわ。


 ――放課後。



 学院の廊下は、いつもより騒がしかった。ひそひそとした声だけど、はっきりと耳に届く。



「……あの人よ」

「伯爵家の養子になるって」

「公爵夫人のお気に入りなんですって」

 ふふ。耳に入るたび、くすぐったくなる。

 私は背筋を伸ばし、歩みを止めない。誰かに声をかけられなくてもいい。今は、見られるだけで十分だった。

 そのとき――。

 少し離れた場所で、数人の令嬢が立ち止まっているのが見えた。その中心にいるのは、リディアの友人、カタリナ。

 彼女は、周囲の話を聞いた瞬間、はっきりと顔を歪めた。


 感情を隠す気もない、その反応。

 ――噂は、ちゃんと届いている。

 カタリナは私の方を見ない。けれど、見なくても分かるのだろう。

 話題の中心が、誰なのか。



「……信じられないわ」

 彼女の小さな呟きが、風に乗って届いた。

 周囲の令嬢たちが、気まずそうに視線を交わす。

 私は心の中で、静かに笑う。

 直接何か言われるより、ずっといい。こうして、遠くから顔を歪められる方が、よほど、効いていると分かるもの。


 私はわざと、少しだけ歩調を緩めた。背筋を伸ばし、姿勢を正し、余裕のある仕草で。


 羨望と嫉妬の視線を感じる。カタリナは、最後までこちらを見なかった。けれど、その沈黙は、十分すぎるほど雄弁だった。

 早くリディアのところに行けばいいのに。


 私は何事もなかったかのように、その場を通り過ぎる。

 背後で、空気がざわりと揺れた。

 ――ええ、いいわ。

 このまま、噂が広がっていけばいい。