sideセオドア
「――あら? 今日、リディアは、どうしたの?」
澄んだ声が風に乗り、庭園に響く。
公爵家の庭に設えられた優雅なガゼボには、すでに美しいティーセットが並べられていた。香り高い紅茶の湯気がゆらゆらと立ち上り、モンルージュ公爵夫人が優雅に微笑んでいる。
「リディアは、急に都合が悪くなり、来られなくなってしまいました。申し訳ありません」
私は穏やかな声でそう告げた。
嘘はついていない――リディアの予定を調べ、彼女が都合が悪そうな今日を選んだのは事実だ。後で調べられても問題がないように、慎重に準備した。
「そうなの。残念だわ」
夫人は少し残念そうに目を伏せたが、すぐに視線を上げ、私の隣に立つエマに目を向ける。
「それで、そちらのご令嬢は、どなた? お約束していたかしら?」
エマは、少し緊張した様子を見せながらも、すぐに微笑んだ。
上品な仕草で裾をつまみ、丁寧に一礼する。
「こちらは、エマ・カークランド男爵令嬢です。私のクラスメイトでして、今日はリディアが来られませんでしたので、代わりにモンルージュ公爵夫人の話し相手としてお連れしました」
「クラスメイト?」
夫人が不思議そうに眉をひそめる。
私とリディアの交友関係を考えれば、男爵令嬢は、確かに意外に映るのかもしれない。
「初めまして、公爵夫人。カークランド男爵家の長女、エマと申します。エマとお呼びくださいませ。公爵家は、素敵な調度品ばかりで、センスの良さに圧倒されましたわ」
エマは流れるような優雅な口調で続けた。
「そう? それは嬉しいわ。これはすべて私の趣味なの。ありがとう」
夫人は満足げに微笑む。
「せっかく来たのだから、さあ、お座りになって」
私はエマと目を合わせ、ゆっくりと頷いた。今日は、何としてでも公爵夫人にエマを気に入ってもらう。そのために、この場を設けたのだから。
エマは淑やかに椅子に腰掛けると、夫人を称賛しながら、美容や流行りのドレス、観劇の話を次々と振っていく。
彼女の言葉は巧みで、軽やかで洗練されていた。
夫人の表情が和らぐ。紅茶のカップを手に取りながら、愉快そうに微笑んでいる。すっかり機嫌が良さそうだ。
これは、順調――そう思った矢先、夫人がふと尋ねた。
「ところで、エマさんは、リディアとも仲が良いのかしら?」
エマの手が一瞬、膝の上で固まる。そして、私の方を見て、かすかに悲しげな笑みを浮かべた。
「エマは、仲良くしたいと思っているのですが……」
私はゆっくりと、しかしはっきりとした口調で言葉を続けた。
「リディアは、身分差がありすぎるからと、関係を深めようとはしません」
「確かにそうだわ。侯爵令嬢と男爵令嬢ですもの」
夫人はリディアの行動に同意するように頷く。だが、その目はどこか思案げだった。
エマは、少し息を整えてから、静かに語り始めた。
「でも、モンルージュ公爵夫人は、このように身分の違いに関係なく、お話をしてくださいますのに」
エマの瞳がまっすぐ夫人を捉える。
「リディア様もモンルージュ公爵夫人のように、広い心をお持ちになり、身分の下の者にも慈しみの心を持ってくだされば……」
その声には、どこか切実な響きがあった。
「未来の公爵夫人だというのに、心配です」
私が付け加えると、夫人は微かに眉を寄せた。
「実は、心配ごとは、まだありまして……」
意を決して夫人に告げる。
「あら、何かしら?」
「セオ、だめよ。私のことなんでしょ? 今日知り合ったばかりなのに…」
エマは首を振った。
「いいのよ。言ってみなさい」
夫人は穏やかな声で促す。
私はエマをちらりと見て、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「エマは、男爵家の後妻の娘なのです。そして、その母は平民でして……。もし当主が早世したら、エマは兄に追い出され、平民になる可能性が高いのです」
「まあ……そんな……」
夫人の表情が一変した。驚きと、わずかに混じる憐れみ。
「こんなに可愛らしい子を追い出すの?」
「お兄様とは、一度も一緒に住んだことがないのです。前妻が生きているころ父が邸に帰らず、私たちと一緒にいたのも気に入らないのでしょう……」
エマの声はかすかに震えていた。
「まあ……なんてことでしょう」
夫人はそっとカップを置き、考え込むように視線を落とす。
「平民になったら、今の学院の友達とも気軽に話せなくなりますわ」
エマは俯き、そっと唇を噛んだ。
「平民の生活なんて……想像しただけで……うぅ……私、一体どうしたら……」
静寂が流れる。私は、夫人の目を真っ直ぐに見た。
「だから、せめて学院にいる間だけでも、仲良くしたいのですが……リディアにそれも咎められてしまって。ですが、私には、身分をどうにかできる力もなく……」
夫人の視線が揺れる。エマの儚げな姿に、何か思うところがあるのかもしれない。
この機会を、逃すわけにはいかない――。
「あなた、婚約者はいないのかしら?」
不意に、夫人が軽やかな声で問いかけた。
「よかったら、誰か紹介しましょうか?」
まずい。
私の背筋がわずかに強張る。公爵夫人の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。エマを気に入ってくれた証拠ではあるが、思わぬ方向に話が進みかねない。
エマも驚いたのか、わずかに目を見開き、それから戸惑いがちに微笑んだ。
「ですが……平民になったら、その婚約もなくなるのではないでしょうか?」
「それはそうよね……」
夫人は顎に手を当て、少し考え込む。その瞳がふと輝き、ぽんと手を打った。
「あっ! それなら――養子はどう?」
養子――。
思いがけず、思惑通りの提案が出て、息をのんだ。
エマの瞳の奥にも、希望の光が宿る。
「考えたことなどありませんでしたわ……。それに、私なんかを養子として迎えてくださる家なんて……」
夫人は朗らかに微笑むと、軽く紅茶のカップを揺らした。
「そういえば、子爵家や伯爵家で、娘がほしいと言っていたところがあったような……」
伯爵家――。
貴族としての身分を保ちつつ、公爵家とも婚姻ができる。十分な選択肢だ。
「……そんなことが、本当に叶うのなら……」
エマの瞳が揺れる。彼女はそっと胸に手を当てた。願っていた未来が、今、目の前に手を伸ばせば届くかもしれないものとして現れたのだから。
夫人は優しく微笑み、エマの手をそっと取る。
「ええ、そうね。あなたにとって、きっと、良いご縁が見つかるわ。任せて」
夫人の声は、迷いを払うように明るい。
エマは深く息を吸い込み、しっかりと夫人を見つめた。
「……もし、そんなお話がいただけるのなら……」
「では、話をしてみるわね。連絡を待っていてちょうだい」
夫人の言葉に、エマの唇がわずかに震え、それでも最後には、ゆっくりと微笑んだ。
――成功だ。
モンルージュ公爵夫人は、すっかりエマに情を移している。身分の低さではなく、境遇の不憫さとしてエマを見て、「守るべき娘」という枠に彼女を収めた。
これで、エマは救われるべき存在になった。そして同時に――リディアは、冷たく、融通の利かない婚約者として、夫人の心に刻まれたはずだ。
計算通りだ。
「……セオ?」
エマが、小さく私の名を呼んだ。視線を向けると、彼女はまだ微笑みを浮かべているが、かすかな不安が揺れている。
「どうした?」
「いえ……ただ、本当に、夢みたいで」
そう言って、エマは両手を膝の上で重ねた。
「私、ここまでしていただく資格があるのかしら、と……」
「あるに決まっている」
反射的に、そう答えていた。
「君は、努力しているし、聡い。誰かに守られる価値がある」
エマは安堵したように微笑み、夫人の方へと向き直った。
「ありがとうございます、公爵夫人。こんなにも親身になってくださって……」
「いいのよ。困ったときは、お互い様でしょう?」
夫人は優しくそう言い、ふと私へと視線を向けた。
「セオドア」
「はい」
「それにしても、あなたは、ずいぶん、彼女のことを気にかけているのね」
その一言に、背筋がひやりとした。
試すような目。正解の言葉は何だ?
「学院で、困っている者を放っておけない性分なだけです」
慎重に言葉を選ぶ。
「リディアも、そういうところは理解してくれている……はずでしたが」
“はず”という言葉に、夫人の眉がわずかに動いた。
「婚約者、という立場は難しいものよ」
その声には、ほんの少しの含みがあった。夫人は気にした様子もなく、穏やかに微笑んだ。
「若いのですもの。いろいろ悩むわよね」
その“悩み”の中に、何が含まれていると、夫人は思っているのだろうか。
私は答えを探すことをやめ、カップを手に取った。
――戻れないところまで来てしまった。
だが、それでも。私は、引き返すつもりはなかった。
選ぶべき未来は、もう決めている。
そのために、切り捨てる覚悟もあるのだから。
「――あら? 今日、リディアは、どうしたの?」
澄んだ声が風に乗り、庭園に響く。
公爵家の庭に設えられた優雅なガゼボには、すでに美しいティーセットが並べられていた。香り高い紅茶の湯気がゆらゆらと立ち上り、モンルージュ公爵夫人が優雅に微笑んでいる。
「リディアは、急に都合が悪くなり、来られなくなってしまいました。申し訳ありません」
私は穏やかな声でそう告げた。
嘘はついていない――リディアの予定を調べ、彼女が都合が悪そうな今日を選んだのは事実だ。後で調べられても問題がないように、慎重に準備した。
「そうなの。残念だわ」
夫人は少し残念そうに目を伏せたが、すぐに視線を上げ、私の隣に立つエマに目を向ける。
「それで、そちらのご令嬢は、どなた? お約束していたかしら?」
エマは、少し緊張した様子を見せながらも、すぐに微笑んだ。
上品な仕草で裾をつまみ、丁寧に一礼する。
「こちらは、エマ・カークランド男爵令嬢です。私のクラスメイトでして、今日はリディアが来られませんでしたので、代わりにモンルージュ公爵夫人の話し相手としてお連れしました」
「クラスメイト?」
夫人が不思議そうに眉をひそめる。
私とリディアの交友関係を考えれば、男爵令嬢は、確かに意外に映るのかもしれない。
「初めまして、公爵夫人。カークランド男爵家の長女、エマと申します。エマとお呼びくださいませ。公爵家は、素敵な調度品ばかりで、センスの良さに圧倒されましたわ」
エマは流れるような優雅な口調で続けた。
「そう? それは嬉しいわ。これはすべて私の趣味なの。ありがとう」
夫人は満足げに微笑む。
「せっかく来たのだから、さあ、お座りになって」
私はエマと目を合わせ、ゆっくりと頷いた。今日は、何としてでも公爵夫人にエマを気に入ってもらう。そのために、この場を設けたのだから。
エマは淑やかに椅子に腰掛けると、夫人を称賛しながら、美容や流行りのドレス、観劇の話を次々と振っていく。
彼女の言葉は巧みで、軽やかで洗練されていた。
夫人の表情が和らぐ。紅茶のカップを手に取りながら、愉快そうに微笑んでいる。すっかり機嫌が良さそうだ。
これは、順調――そう思った矢先、夫人がふと尋ねた。
「ところで、エマさんは、リディアとも仲が良いのかしら?」
エマの手が一瞬、膝の上で固まる。そして、私の方を見て、かすかに悲しげな笑みを浮かべた。
「エマは、仲良くしたいと思っているのですが……」
私はゆっくりと、しかしはっきりとした口調で言葉を続けた。
「リディアは、身分差がありすぎるからと、関係を深めようとはしません」
「確かにそうだわ。侯爵令嬢と男爵令嬢ですもの」
夫人はリディアの行動に同意するように頷く。だが、その目はどこか思案げだった。
エマは、少し息を整えてから、静かに語り始めた。
「でも、モンルージュ公爵夫人は、このように身分の違いに関係なく、お話をしてくださいますのに」
エマの瞳がまっすぐ夫人を捉える。
「リディア様もモンルージュ公爵夫人のように、広い心をお持ちになり、身分の下の者にも慈しみの心を持ってくだされば……」
その声には、どこか切実な響きがあった。
「未来の公爵夫人だというのに、心配です」
私が付け加えると、夫人は微かに眉を寄せた。
「実は、心配ごとは、まだありまして……」
意を決して夫人に告げる。
「あら、何かしら?」
「セオ、だめよ。私のことなんでしょ? 今日知り合ったばかりなのに…」
エマは首を振った。
「いいのよ。言ってみなさい」
夫人は穏やかな声で促す。
私はエマをちらりと見て、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「エマは、男爵家の後妻の娘なのです。そして、その母は平民でして……。もし当主が早世したら、エマは兄に追い出され、平民になる可能性が高いのです」
「まあ……そんな……」
夫人の表情が一変した。驚きと、わずかに混じる憐れみ。
「こんなに可愛らしい子を追い出すの?」
「お兄様とは、一度も一緒に住んだことがないのです。前妻が生きているころ父が邸に帰らず、私たちと一緒にいたのも気に入らないのでしょう……」
エマの声はかすかに震えていた。
「まあ……なんてことでしょう」
夫人はそっとカップを置き、考え込むように視線を落とす。
「平民になったら、今の学院の友達とも気軽に話せなくなりますわ」
エマは俯き、そっと唇を噛んだ。
「平民の生活なんて……想像しただけで……うぅ……私、一体どうしたら……」
静寂が流れる。私は、夫人の目を真っ直ぐに見た。
「だから、せめて学院にいる間だけでも、仲良くしたいのですが……リディアにそれも咎められてしまって。ですが、私には、身分をどうにかできる力もなく……」
夫人の視線が揺れる。エマの儚げな姿に、何か思うところがあるのかもしれない。
この機会を、逃すわけにはいかない――。
「あなた、婚約者はいないのかしら?」
不意に、夫人が軽やかな声で問いかけた。
「よかったら、誰か紹介しましょうか?」
まずい。
私の背筋がわずかに強張る。公爵夫人の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。エマを気に入ってくれた証拠ではあるが、思わぬ方向に話が進みかねない。
エマも驚いたのか、わずかに目を見開き、それから戸惑いがちに微笑んだ。
「ですが……平民になったら、その婚約もなくなるのではないでしょうか?」
「それはそうよね……」
夫人は顎に手を当て、少し考え込む。その瞳がふと輝き、ぽんと手を打った。
「あっ! それなら――養子はどう?」
養子――。
思いがけず、思惑通りの提案が出て、息をのんだ。
エマの瞳の奥にも、希望の光が宿る。
「考えたことなどありませんでしたわ……。それに、私なんかを養子として迎えてくださる家なんて……」
夫人は朗らかに微笑むと、軽く紅茶のカップを揺らした。
「そういえば、子爵家や伯爵家で、娘がほしいと言っていたところがあったような……」
伯爵家――。
貴族としての身分を保ちつつ、公爵家とも婚姻ができる。十分な選択肢だ。
「……そんなことが、本当に叶うのなら……」
エマの瞳が揺れる。彼女はそっと胸に手を当てた。願っていた未来が、今、目の前に手を伸ばせば届くかもしれないものとして現れたのだから。
夫人は優しく微笑み、エマの手をそっと取る。
「ええ、そうね。あなたにとって、きっと、良いご縁が見つかるわ。任せて」
夫人の声は、迷いを払うように明るい。
エマは深く息を吸い込み、しっかりと夫人を見つめた。
「……もし、そんなお話がいただけるのなら……」
「では、話をしてみるわね。連絡を待っていてちょうだい」
夫人の言葉に、エマの唇がわずかに震え、それでも最後には、ゆっくりと微笑んだ。
――成功だ。
モンルージュ公爵夫人は、すっかりエマに情を移している。身分の低さではなく、境遇の不憫さとしてエマを見て、「守るべき娘」という枠に彼女を収めた。
これで、エマは救われるべき存在になった。そして同時に――リディアは、冷たく、融通の利かない婚約者として、夫人の心に刻まれたはずだ。
計算通りだ。
「……セオ?」
エマが、小さく私の名を呼んだ。視線を向けると、彼女はまだ微笑みを浮かべているが、かすかな不安が揺れている。
「どうした?」
「いえ……ただ、本当に、夢みたいで」
そう言って、エマは両手を膝の上で重ねた。
「私、ここまでしていただく資格があるのかしら、と……」
「あるに決まっている」
反射的に、そう答えていた。
「君は、努力しているし、聡い。誰かに守られる価値がある」
エマは安堵したように微笑み、夫人の方へと向き直った。
「ありがとうございます、公爵夫人。こんなにも親身になってくださって……」
「いいのよ。困ったときは、お互い様でしょう?」
夫人は優しくそう言い、ふと私へと視線を向けた。
「セオドア」
「はい」
「それにしても、あなたは、ずいぶん、彼女のことを気にかけているのね」
その一言に、背筋がひやりとした。
試すような目。正解の言葉は何だ?
「学院で、困っている者を放っておけない性分なだけです」
慎重に言葉を選ぶ。
「リディアも、そういうところは理解してくれている……はずでしたが」
“はず”という言葉に、夫人の眉がわずかに動いた。
「婚約者、という立場は難しいものよ」
その声には、ほんの少しの含みがあった。夫人は気にした様子もなく、穏やかに微笑んだ。
「若いのですもの。いろいろ悩むわよね」
その“悩み”の中に、何が含まれていると、夫人は思っているのだろうか。
私は答えを探すことをやめ、カップを手に取った。
――戻れないところまで来てしまった。
だが、それでも。私は、引き返すつもりはなかった。
選ぶべき未来は、もう決めている。
そのために、切り捨てる覚悟もあるのだから。

