恋は、終わったのです

 レオナードの邸から帰ると、夕暮れの柔らかな光が窓から差し込んでいた。


 薄橙色の輝きが室内を優しく包み込む。


「お帰りなさい姉上」


 弟エゼルが迎えてくれた。扉のそばに立つ彼は、私に向かって微笑んでいた。琥珀色の瞳にはどこか安堵の色が浮かんでいる。


 私たちは、ソファに座り、手にした包みをそっと開き、お土産の菓子の箱を取り出した。


「エゼル、お土産よ」


 テーブルに箱を置くと、エゼルの視線が自然とそこに落ちた。


「ありがとうございます、姉上」


 五歳年下の彼は、最近急に大人びた表情を見せるようになった。箱を開けると、ふんわりとした甘い香りが広がる。



「今日は、ボーモント子爵家に行ったのでしたね。いつも姉上にお菓子をくれるという……」

「ええ、そうよ。レオナードの家に行ったの」

「そうそう、レオナード様だ。姉上といつも首位を争っている方ですよね」



 エゼルは箱の中のパイをじっと見つめながら言う。



「姉上がいつも絶賛しているパイがこれですか?」

 
「アップルパイね。新作のカスタードパイもおいしかったわ」


 私は思い出す。サクサクとしたパイ生地に、口いっぱいに広がる甘酸っぱいリンゴやカスタードの風味。お茶とともに楽しんだ午後のひとときが、よみがえる。


 エゼルが一つ手に取り、そっと口に運ぶ。ぱくりと頬張った瞬間、彼の表情がふっと和らぐ。

「っ! すごく美味しいです!」

 私を見上げるエゼルの目が、どこか嬉しそうに輝いている。





「姉上……お茶会は、楽しめましたか?」

 エゼルは私をじっと見つめた。その瞳には、どこか安堵の色が滲んでいる。



「……楽しそうな顔を久しぶりに見ました」


 そう言う彼の表情は優しく、それでいて少し寂しげだった。


「ええ、体重が心配だけど。お腹がいっぱいよ。とても満足な一日だったわ」


 冗談めかして言うと、エゼルはくすりと笑った。しかし、その表情にはわずかな影が差している。



「最近は食欲がなさそうでしたから、心配しておりました」


 その言葉に、心配させていたのだと、改めて気づかされる。


 五歳下のエゼルは、つい最近まで、泣き虫だと思っていたのに、今ではこんなにもしっかりと私を気遣ってくれるようになっていた。



「……元気がなかった原因はセオドア様ですか?」



 エゼルの低く落ち着いた声に、私は目を伏せる。

 紅茶のカップに手を伸ばし、ゆっくりと持ち上げる。冷めかけた液体が喉を通っていくが、味がしない。ただただ、喉の奥にぬるい感触が残るだけだった。



「僕は、セオドア様が兄上になるのは嫌です」



 はっきりとしたその言葉が、静かな部屋に鋭く響いた。

 私はカップをそっとソーサーに戻す。カチリと控えめな音が鳴った。



「そういうことを言うものではないわ」

 努めて穏やかに返したものの、エゼルはまっすぐに私を見つめた。その青い瞳には、揺るぎない決意が宿っている。



「姉上、結婚なんかせずに、ずっと居ていいのですよ?」

 彼の言葉は優しさに満ちていて、心にじんわりと染み渡る。



「まぁ、ふふ。あなたはよくても、フローレンスが可哀想だわ」


「フローレンスと僕の提案です」



 私は小さく息を吐く。弟とその婚約者にまで心配をかけていたのかと思うと、申し訳ない気持ちが胸を満たした。



「父上は家にあまりいらっしゃらないから知らないんだ。姉上と登下校を共にしていないことも、互いの家を行き来しないことも、何年も贈り物をしないことも」

「……あら、この前もらったわよ」

「姉上に全く似合っていないあのドレスですか!? あんなの、嫌がらせじゃないですか」


 私は言葉を失った。


 まさかエゼルにそこまで見透かされていたとは。




「姉上に言うか迷ったのですが……」



 エゼルは一度言葉を切り、唇を引き結ぶ。そして、意を決したように続けた。



「フローレンスと一緒に街へ行ったとき、その……セオドア様が令嬢と歩いていまして。とても親密そうに」


 エマね。誰が見ているのかわからないのだからもう少し気を付けてもよさそうなのに。




「……知っているわ」

「知っている?」


 エゼルが驚いたように目を見開いた。




「あの令嬢は誰なのです! 婚約者がいる者とあんなに近く、まるで恋人のように……あっ!」



 彼ははっとしたように口に手を当てた。気を遣ったのね。


 私が何も言わないままでいると、彼は怒りを露わにした。



「……これは不貞です。然るべき対処を。今までのことの含めて父上に言いましょう。姉上を、侯爵家を馬鹿にしている!」



 エゼルは拳を握りしめ、憤る。

 しかし、その強い感情に対し、私は静かに首を振った。



「あなたが生まれる前からの婚約者よ。今や、婚姻と同時にスタートする事業もたくさんある。両家の関係がこじれるのはよくないわ」



 それに、将来侯爵家を継ぐのはエゼルだ。無用な騒動を起こせば、彼の迷惑にもなる。



「僕がなんとかします。次期侯爵として。万が一、事業がだめになったとしても……」

 その言葉に、私はかすかに目を細める。



「それに……知っているでしょ。お父様と亡くなったお母様が望んだ結婚だということを」



 エゼルは言葉を詰まらせる。



「……姉上は、セオドア様のことを好きなのですか?」


「さあ、どうかしら」


 私は微笑んでみせる。けれど、胸が静かに痛んだ。

「本当は、怒っても、拒んでもいいはずなのに……姉上はいつも、皆が困らない選択をする」

 エゼルは、ぎゅっと拳を握りしめる。


「僕は、それが……怖いんです。姉上が、いつか壊れてしまうんじゃないかって」

 その言葉に、私は思わず目を見開いた。しばらく、言葉が見つからなかった。
 


「……ありがとう、エゼル」

 ようやく、そう言った。

「あなたがそんなふうに思ってくれているなんて、知らなかったわ」

 彼の頭に、そっと手を置く。もう子ども扱いする年ではないと分かっていても、触れたくなった。



「姉上」

「私はね、全部を我慢しているわけじゃないの」

 彼の視線をまっすぐ受け止める。



「選んでいるだけ。何を守って、何を手放すのかを」

 それは言い訳にも、自己弁護にも聞こえただろう。けれど、今の私にとっては真実だった。



「でも、もし、セオドアが……このまま私と向き合うことすら放棄するのなら。そのときは、私も選び直すわ」

 少しだけ、声を落とす。エゼルの瞳が揺れた。


「安心して。逃げる、という意味じゃないの。自分を大切にする、という意味よ」

 私は静かに微笑む。

 長い沈黙のあと、エゼルは小さく頷いた。エゼルが部屋を出ていったあと、私は一人、窓辺に立った。


 ガラスに映る自分の姿は、いつもと変わらない。けれど、心は揺れていた。

 選ばれるのを待つのではなく。
 選ばせるのでもなく。

 私自身が、どう在りたいのか。その問いに向き合わなくてはいけない。