恋は、終わったのです

 sideリディア



「リディア、話がある」


 セオドアが不機嫌そうな顔で私を呼び止めた。

 風が吹く中庭に立ち、彼はいつもより険しい表情をしている。



「前のお茶会ではっきりさせろと言ったので、はっきり言おう」


 その言葉に、私は少し息を詰める。冷たい空気が肺にしみた。


「私は、エマのことが好きだ」

「そう……」


 抑えた声で答える。そんなこと、知っている。はっきりさせてほしいのは、そのことについてではない。



「だが、リディアの言った通り、現実として向き合わなければならないものが、たくさんあるのは事実だ」



 その通りよ。それをどうするか聞きたい。私は、彼の言葉をじっと聞きながら、目を向けた。



「私は、それを解決するためにしばらく忙しくなる。だから、卒業までの約半年、リディアとは関わらないことにする」



 一瞬、耳を疑った。


 理解が追いつかない。


 何を言われているの?  婚約者である私と半年も関わらない?



「っ! 向き合わなくてはいけないのは、私たちの未来についてもです」


 私は言葉を絞り出した。声が震えるのを抑えながら。




「分かっている」

 彼の返答は冷たかった。



「本当に分かっているの? 一体どうするつもりなのです!!」



 問い詰めるような声が出てしまう。これだけ心を乱されたのに、黙っていられるわけがない。



「うるさい!」




 次の瞬間――。

 パシンッ。

 鋭い音が響く。頬がじんじんと痛む。まさか――叩かれた?



「私は、未来についてしっかり考えるつもりだ。リディアが、エマと話し合えって言ったのだろう!」



 話し合えって……だめだ、話が全く通じていない――


 彼の自分勝手な言葉が心に突き刺さる。

 ショックと痛みで、視界がぐらりと揺れる。気を失いそうだったその時――。



「リディア!」


 カタリナの暖かい手が、私の体を後ろから支えた。思わず涙がにじむ。



「モンクレア伯爵令息! あなた、こんな人通りの多い場所で、何をやっているの!」


 カタリナの声が鋭く響いた。彼女はセオドアの正面に立ち、冷ややかな視線を向けている。その瞳の中に怒りの炎が宿っているかのようだった。周囲にいた人々は、突然の彼女の声に驚き、足を止めて振り返る。その場には緊張感が走り、ざわつきが広がっていく。

 セオドアは、カタリナの言葉にたじろぎ、一歩後ずさる。その表情は引きつっていた。



「か、関係ないだろう」


 セオドアは、反論するが、周囲の目が気になるようだ。



「貴族の令息が、令嬢の頬を叩いた。大問題よ!」

 カタリナの言葉がさらに厳しく響く。



「自分の婚約者だぞ。問題になるわけが……」


 セオドアは声を絞り出し、苦し紛れに言い返した。


「婚約者であるならば、なおさらよ!」


 彼女の髪が、怒りに合わせて揺れる。強い意志を宿した瞳はセオドアを捉えて離さない。



 後ろから、急いでかけてくる足音が聞こえた。



「あー、くそ! 間に合わなかった……リディア、大丈夫か?」


 低く、しかし力強い声が私を労わる。レオナードだった。


 彼はいつもの飄々とした態度をかなぐり捨て、鋭い目つきでセオドアを睨みつける。普段の軽口からは想像もつかない、真剣な表情だった。



「……何があったのか、ここに居る者の証言もきちんと取る。いいですね、モンクレア伯爵令息」

 レオナードの一言が重くのしかかったのか、セオドアの顔から血の気が引いていく。彼の唇はかすかに震え、動揺を隠すこともできなかった。


 周囲の人々は、小声で囁き合う。



「なんだ……脅しているのか?  私は未来の公爵だぞ。身分をわきまえろ!」


「今はまだ、伯爵令息じゃない! 同じ伯爵でも私の方が格上よ。それにリディアは侯爵令嬢よ。大変なことになる覚悟を持ちなさい!」



 カタリナの鋭い声に、セオドアは何も言えなくなった。だが、その目には悔しさと怒りが滲んでいた。



「お前たちが、その様な口をきいたことは数年先も忘れない。私が公爵になってから同じことを言ってみるんだな!」



 彼はそう吐き捨てるように言うと、足早にその場を去っていった。






「ああ……、リディア。叩かれたのか?」


 レオナードの声が耳に届く。私の頬を見た彼の顔が、悲しげだ。



「こんなに腫れて……今すぐ医療室に行きましょう」


 カタリナの手に引かれながらも、私は足元がふらつくのを感じた。

 顔が熱く、じんじんと痛む。だが、それ以上に心が痛かった。

 医療室にたどり着くと、中には誰もいなかった。



「あら? 先生がいない……」


 カタリナは不機嫌そうに辺りを見回す。


「待ってて、呼んでくるから。そうだわ、ついでに先生方にこのことを言ってくるわ。流石に黙っていられない」


 彼女の鋭い言葉にハッとして、私は慌てて手を伸ばした。



「カタリナ、ありがとう。でも、そんなことしたら領地にいるお父様に報告が行くわ」


 私が止めると思っていなかったのか、彼女は眉をひそめた。



「……侯爵様も知った方がいいわ。ね、リディア。今度こそ、そうしましょう?」

「心配をかけたくないの……」


 私は首を振りながら、レオナードが持ってきた氷嚢を受け取り、頬に当てた。冷たさが痛みを少しだけ和らげるようだった。



「ほら、しっかり冷やしたら、帰るまでには腫れは引くわ」


 カタリナはしばらく考え込むような表情をしていたが、やがて悲しげに微笑んだ。


「……分かったわ。馬車の手配をしてくる」


 私は小さく頷いた。カタリナはそのまま部屋を出て行った。




「リディア……」


 後ろから聞こえた静かな声に振り向くと、レオナードが立っていた。



「今日のこともしっかり記録しておくからな。絶対に許しちゃだめだ……」


 氷嚢で頬を冷やしながら、私は彼の真剣な表情を見つめた。




「まあ、レオナード、あなた、まだあの記録を続けていたの?」


 軽い調子で問いかける。彼が、セオドアの言動を書いている記録のことを思い出したのだ。



「俺の計算では、記している証拠だけで莫大な慰謝料請求ができるぞ」


 彼は、悲しげに笑い、冗談とも本気とも取れる声で答えた。



「使わないって言っているのに」

 私は小さく笑って首を振る。




「もう、俺の趣味みたいなものだ。気にするな」


 彼は、肩をすくめた。その様子はいつも通りで、少しだけ気持ちが和んだ。



「時間の無駄よ、きっと」

「絶対使うぞ?  賭けるか?」


 彼が挑発するような口調で言ったので、私は氷嚢を頬に当てたまま顔を上げた。



「ふふ、いいわよ。そうね、いつになるかわからないから、負けた方が勝った方の、その時の願いを一つだけ叶えるというのはどうかしら?」


「よし、乗った」


 彼は、手を差し出してきた。私はその手を軽く握り返し、笑みを交わした。



 痛む頬を冷やしながら、同じく痛む心が、温かくなるのを感じた。