恋は、終わったのです

 sideリディア



 馬車はゆっくりと石畳の道を進んでいた。

 窓から見える街並みはどこか霞んで見えた。揺れる車内、静かにこぼれるため息。

 冷たい革張りの座席に身を預け、何度も心を押し殺した。




「お嬢様、カタリナ様がお部屋でお待ちです」


 家に戻ると侍女が伝えてくる。ドレスの裾を気にしながら足早に廊下を進み、暖かな灯りが漏れる扉を開ける。


 扉を開けると、カタリナが振り返った。


「リディア、お邪魔しているわ。お茶会の話を聞こうと思って……って、一体どうしたの?」


 心配そうな目がすぐに私を捉える。



 我慢していたのに、その優しい声を聞いた瞬間、堰が切れたように涙が溢れ出す。


 頬を伝う温かい雫は次から次へと流れ落ち、震える手で顔を覆う。



「とりあえず、座って!」


 カタリナは慌ててソファに導いた。



「よかったわ、迷ったけど訪れて。やっぱりあの二人が何かしたのね!」

「ふふ、見て。このドレス、どう思う?」


 カタリナは視線を私のドレスへと向け、ためらいがちに口を開く。



「お世辞にも似合っているとは言えないわ。リディアには、もっと大人っぽくて落ち着いた色やデザインが似合うのに……。セオドアのセンスって一体……」


 その言葉に深く頷いた。




「そうよね、そう思うわよね。実はね、このドレス……エマが全く同じものを着ていたの」


 一瞬、空気が張り詰める。



「全く同じ……? つまり、二人に同じドレスを贈ったということ?」

「そうみたい」


 怒りと悲しみが自分の声に混ざり合っている。


「っ! ……分かったわ。とりあえずそのドレスを脱ぎましょう。話はそれからよ」


 侍女を呼び、ドレスを脱ぐ準備をする。その間、部屋の空気は静まり返り、時計の針の音だけが微かに聞こえた。


 やがて、メイドが用意した紅茶の香りがほのかに漂い、ほんの少しだけ張り詰めた空気が和らいだ。


 カタリナは深く息を吐き出し、再び口を開く。




「……結局、エマが、セオドアを狙っていることが分かったのね」


 カタリナの声には怒りと諦めが混ざり合い、その目は鋭く光っていた。



「リディア、慰謝料よ……。レオナードの記録を元に婚約破棄の準備を進めるべきだわ。今すぐ侯爵様のところに行きましょう!」

 その言葉に、静かに首を横に振った。手に握りしめたハンカチをぎゅっと握りしめ、深く息を吸い込む。



「そんなに簡単にいかないことは、あなたもよく知っているでしょう?」

「そうだけど、これはあまりにもひどいわ!」


 カタリナは声を荒げた。目には怒りの色が浮かび、義憤が彼女を突き動かしているのが分かる。



「それにお父様は、午後から領地に行くと言っていたから、暫く留守よ」

「……侯爵様とあなたの仲はどうなの? もし関係が悪く、言いにくいのだったら……」

 カタリナが恐る恐るといった雰囲気で尋ねる。



「いいえ、関係がいいからこそ、言えないわ。セオドアが、どういう選択をするかは分からないけれど、そこまで愚かではないはずよ」



「……愚かだったらどうするの? でも……愛人も許せないわ!」


 カタリナの声は震え、どこか悲痛な響きを含んでいた。



 目を閉じ、一度息を整える。声に滲む冷静さの裏側には、押し殺した感情が渦巻いている。


「……お父様は、この結婚を楽しみにしているの。亡くなったお母様も。二人の期待を裏切ることはできない。それに、セオドアに関わる人たちが大変な目に遭うのも嫌なの」



 その言葉に、カタリナはじっと私を見つめた。そして一拍の沈黙の後、静かにため息をつく。



「それと、あなたが我慢するのも許すのも違うと思うわ」

「貴族として生まれたのですもの。……それもまた宿命よ」


 カタリナは眉を寄せ、少し身を乗り出すように言葉を投げかけた。



「そのセオドアが養子に入るモンルージュ公爵家から言ってもらうというのは? さすがに外聞が悪すぎるもの。何とかしてくれるのではなくて」

「きっとしてくれるわ。でも、他の人に言われたところで、人の心を思い通りになんてできないわ。無理に引き離したとしても思いは残る。それに、隠れて知らないところで子供ができていたら、逆に大変なことになるもの」



 カタリナは目を伏せながら黙ってしまった。言葉が途切れ、二人の間に短い沈黙が落ちた。


 私は、そっと視線を上げ、続けた。



「卒業までまだ、時間があるわ。恋い焦がれるような仲でなくても、公爵家と互いの家の繁栄、そして家族を守るためのパートナーとして関係を作っていきたいと思っているの」



 カタリナの顔に困惑の表情が浮かぶ。



「こんなドレスを贈る人と?」

「そう……こんなドレスを贈る人と」



 声が少し震えた。


 その瞬間、また、瞳から涙がぽつりと溢れた。頬を伝うその雫は、抑えきれない感情の奔流だった。


「カタリナ……。私にだって恋は分かる。恋を選ばなかっただけ。ずっと笑い合いたい。ほんの少しでも会いたい。手に入れられるなら、見つめ合うことができるなら、悪魔にでさえ祈りたい」

「リディア……」

 カタリナが、辛そうな顔をする。


「諦める辛さも分かるの。だから……もし、セオドアが恋を選びたいのなら……強く否定することなどできないわ」


 カタリナは私の手をそっと握り、優しく問いかける。



「……私しかいないわ。本音を言ってちょうだい」


 本音……。



「……エマと運命の恋をした。私とは、公爵家と互いの家の繁栄、互いの家族を守るためのパートナーとしても一緒にいられない。婚約を解消してくれ……そう言ってくれないかしら? もうこれ以上歩み寄れないのなら、恋を諦め、願いから目を逸らし、それでも、セオドアとの未来を真剣に考えている私を解放してほしい」


「リディア……」



 カタリナの目にも涙が浮かぶ。


 すすり泣きだけが聞こえる長い時間の後、私は、カタリナに向かって微笑みを浮かべた。



「さあ、泣いたらすっきりしたわ。このドレスをずたずたに切り裂いてすっきりしたいの。手伝ってくれる?」



 カタリナは涙をぬぐい微笑み返し、小さく頷いた。



「もちろんよ。その後は燃やしてしまうのがいいわね」



 目の赤いまま二人で笑い合った。

 はさみが布を裂く音が、やけに小気味よく響いた。

 柔らかなシフォンは抵抗することなく裂けていき、刺繍糸が無残に垂れ下がる。その一つ一つが、溜め込んでいた感情を消していくようだった。


「ほら、ここもよ。ずいぶん安っぽい縫い方だわ」

「本当ね。……ふふ、こんな安物を着ていたのね私」

 笑いながら言ったはずなのに、なぜか心がまた痛んだ。最後に残った布切れを、カタリナがぐっと握りしめる。

「これで終わり。少なくとも今日は、セオドアのことを考えなくていいわ」

 頷きながら、私は深く息を吐いた。

 さすがに燃やすことはできなかった。けれど、裂かれたドレスは侍女に預け、「処分して」とだけ伝えた。それで十分だった。 



 ***



 カタリナが帰った後、部屋は静まり返った。

 鏡台の前に腰を下ろし、結い上げていた髪をほどく。気分が、少しだけ軽くなった気がした。



「……私は、何をしているのかしら」


 独り言は、誰にも届かない。

 決めたのは自分だ。けれど、覚悟まで、本当はできていなかったのだと、今日ようやく思い知らされた。

 セオドアが選ぶのが、義務か、恋か。あるいは、どちらも中途半端に抱え込んでしまうのか。



 それは、きっと私も同じ。