バイバイを書いた夜、君が来た ――あの夜、君の声が僕を繋ぎ止めた

玄関のドアが閉まる音が、思ったよりも静かだった。
 それなのに、胸の奥が小さく跳ねたのが自分でも分かる。

 部屋はまだがらんとしている。最低限の荷物を置いただけで、生活の匂いはほとんどない。それでも、もう“仮”の場所じゃないんだって、足の裏からじわじわ伝わってきた。

 僕は息をついて、肩の力を抜く。
 その様子を見ていたぱちぇが、少しだけ目を細めた。

「……落ち着いた?」

 柔らかい声。いつもと同じ、穏やかで、包むみたいな調子。

「うん。やっと、って感じ」

 正直な気持ちだった。
 ここに来るまで、何もなかったわけじゃない。選ぶことも、決めることも、覚悟だってちゃんとあった。それでも今は、難しいことを考える気にはなれなかった。

 ぱちぇは僕の隣に立つ。触れてはいないのに、距離が近い。それだけで、胸の奥が静かになる。

「無理してない?」

「してないよ。……一緒に決めたでしょ」

 そう言うと、ぱちぇは少し困ったように笑った。

「そうだな」

 短く返すその声が、やけに優しい。
 それだけで、安心する。

 床に置いた荷物を見渡しながら、僕は小さく息を吸った。

「なんか、不思議だね」

「何が?」

「もう、ここが日常になるんだって」

 言葉にすると、少しだけ実感が増す。
 ぱちぇは少し考える素振りをしてから、静かに口を開いた。

ぱちぇは少し考える素振りをしてから、静かに口を開いた。

「さっきさ」

何気ない調子なのに、視線は真っ直ぐだった。

「玄関、閉めたとき」

「鍵の音、聞こえた?」

一瞬、息が詰まる。

頭の中に浮かんだのは、
郵便受けに鍵を返した、あの感触だった。

金属の重み。
戻らないって分かっているのに、
手放すまで、少しだけ時間がかかったこと。

「……聞こえた」

そう答えると、
ぱちぇは小さく頷いた。

「そっか」

それだけ。

でも、続けて言う。

「もう、戻らなくていいから」

優しい声だった。
命令じゃない。
慰めでもない。

事実を、確認するみたいな言い方。

「ここが、帰る場所だから」

胸の奥に、
張りついていた何かが、ふっと緩む。

「置いてきたものがあってもさ」

「それでいいんだよ」

ぱちぇは、少しだけ距離を詰めて立つ。

触れない。
でも、逃げ場を残さない距離。

「〇〇は、ちゃんと選んでここに来た」

「それだけで、十分」

言葉が、静かに染みてくる。

僕は、床に置いた荷物をもう一度見る。
少なすぎるくらいの持ち物。
それでも、全部がここにある。

「……不思議だね」

もう一度、そう呟く。

「こんなに何もないのに」

「ちゃんと、いる感じがする」

ぱちぇは、それを聞いて少しだけ笑った。

「それでいい」

短く、はっきり。

「〇〇は、ここにいていい」

その一言で、
胸の奥に残っていた揺れが、ようやく収まった。

過去を置いてきた痛みも。
選んだ責任も。

全部ひっくるめて、
ここに立っている。

それだけで、今日は十分だった。