バイバイを書いた夜、君が来た ――あの夜、君の声が僕を繋ぎ止めた

翌日から、
ぱちぇは本格的に動き始めた。

仕事のこと。
住む場所のこと。

スマホを見て、電話をかけて、
必要な情報を一つずつ拾い上げていく。

焦っている様子はない。
でも、止まらない。

それを、僕は少し離れたところから見ていた。

邪魔をしないように。
でも、視界から外さないように。

落ち着かなくて、
気づくと何度も、ぱちぇの方を見てしまう。

――僕は、何をしているんだろう。

ここに来るって決めたのは、僕だ。
一緒に生きるって、選んだのも。

それなのに、
今の僕は、ただ隣にいるだけで。

胸の奥に、じわじわと焦りが溜まっていく。

働かないと、だよね。

当然の考えだった。
生活するなら、お金は必要で。
二人で生きるなら、支えるのは一人じゃない。

分かってる。

分かってるのに、
体がついてこない。

引っ越しの疲れ。
環境が変わった緊張。
ずっと張っていた気持ちが、ここにきて緩んでしまっている。

何もしていない自分が、
少し、怖かった。

その視線に、
ぱちぇはすぐ気づいた。

電話を切ったあと、
こちらを見て、ふっと表情を緩める。

「大丈夫だよ」

それだけで、
胸が少し軽くなるのが分かってしまう。

「もう少ししたら、コンビニ行こうか」

不安を見透かしたみたいなタイミングで、
いつも通りの声。

問い詰めない。
理由も聞かない。

ただ、今できる安心を差し出してくる。

そんな日々が、数日続いた。

ホテル生活、五日目。

一本の電話が入る。

仕事の面接の話。
しかも、電話でいいらしい。

その場で受けることになって、
僕は少し距離を取って、様子を見ていた。

はっきりした声。
迷いのない返答。

条件を確認して、
質問に答えて、
必要なことだけを、過不足なく伝える。

その背中が、やけに頼もしくて。

気づいたら、
何も考えずに見惚れていた。

電話が終わる。

ぱちぇが、こちらを見る。

「……明日、また県を移動になるけど」

少しだけ、間を置いて。

「いい?」

「一緒にいれたら、なんでもいい」

そう答えると、
ぱちぇは少し笑ってから、教えてくれた。

「一緒に住めるアパートと、仕事」

一拍。

「見つかった」

胸が、跳ねる。

安心と、嬉しさと、
それから――別の感情が、遅れてやってくる。

……じゃあ、次は。

言葉にはしなかったけれど、
その続きを考えてしまった僕がいた。

僕も、動かなきゃ。
ここに“いるだけ”じゃ、だめなんじゃないか。

翌朝、
二人で向かった先。

布団も、家具も、何もない。
最低限の設備だけが揃った、2LDKの部屋。

窓から差し込む光が、
まだ誰の生活にも染まっていない床を照らしている。

ここで、暮らす。

その事実が、
じわじわと現実になっていく。

同時に、
胸の奥が、少しだけざわついた。

……僕、どうするんだろう。

考えていると、
ぱちぇが、隣に立つ。

何も言わない。
でも、視線だけで分かってしまう。

全部、見抜かれている。

「〇〇さ」

静かな声。

「働かなきゃって、考えてるでしょ」

胸が、小さく跳ねる。

否定も、誤魔化しもできなかった。

「……うん」

正直に答えると、
ぱちぇは、少しだけ首を振った。

「今は、いいよ」

「え……?」

「無理しなくていい」

淡々とした口調。
でも、揺れがない。

「働きたくなったら、その時は応援する」

一拍。

「でも、そうじゃないなら」

視線が、真っ直ぐ向けられる。

「俺が養うって、言ったでしょ」

言い切りだった。

押し付けるみたいな強さじゃない。
でも、逃げ道もないくらい、はっきりした言葉。

胸の奥が、きゅっと縮む。

「……甘えてるみたいで」

そう言いかけた声を、
ぱちぇは、途中で遮らなかった。

全部、聞いた上で。

「甘えじゃないよ」

「一緒に生きる選択だよ」

その一言で、
張っていたものが、音を立ててほどけた。

玄関のドアが閉まる音が、思ったよりも静かだった。
それなのに、胸の奥が小さく跳ねたのが自分でも分かる。

部屋はまだがらんとしている。
最低限の荷物を置いただけで、生活の匂いはほとんどない。

それでも、
もう“仮”の場所じゃないんだって、足の裏からじわじわ伝わってきた。

僕は息をついて、肩の力を抜く。

その様子を見ていたぱちぇが、少しだけ目を細めた。

「……落ち着いた?」

「うん。やっと、って感じ」

ぱちぇは僕の隣に立つ。
触れてはいないのに、距離が近い。

「無理してない?」

「してないよ。……一緒に決めたでしょ」

そう言うと、
ぱちぇは少し困ったように笑った。

「そうだな」

短く返すその声が、やけに優しい。

床に置いた荷物を見渡しながら、
僕は小さく息を吸った。

「なんか、不思議だね」

「何が?」

「もう、ここが日常になるんだって」

ぱちぇは少し考えてから、静かに言った。

「俺は……嬉しいよ」

それは飾りのない声音だった。

「〇〇が、ここにいるのが」

その呼び方を聞くたびに、胸の奥が温かくなる。

「……僕もだよ」

それ以上、言葉はいらなかった。

僕はそのまま、ぱちぇの肩に額を預ける。
受け止めるみたいに、腕が回ってくる。

何も決まっていないことは、まだたくさんある。
家具も、生活のリズムも、細かい約束も。

それでも。

この腕の中で、息をしていられること。
同じ場所で、同じ時間を重ねていけること。

それだけで、十分だった。