バイバイを書いた夜、君が来た ――あの夜、君の声が僕を繋ぎ止めた

行き先は、まだ名前がない

上か、下か。
最初に決めたのは、それだけだった。

地図を開いて、真剣に話し合ったわけじゃない。
ただ、並んで座って、スマホを覗き込みながら。

「……暑いの、きついよね」
「うん。できれば、涼しい方がいい」

それだけで、進む方向は決まった。
今いる場所より、少し上。
名前も、土地勘も、ほとんどない方へ。

大きな理由なんて、なかった。
でも、もう戻らないことだけは、はっきりしていた。

改札を抜けて、ホームに立つ。
人の流れの中で、ぱちぇが自然に手を伸ばしてきた。

恋人繋ぎ。

絡められた指の感触に、胸が少し落ち着く。
逃げているはずなのに、
不思議と、追われている感じはしなかった。

電車が動き出してから、しばらくは無言だった。

揺れに合わせて、吊り革がきしむ音。
レールの継ぎ目を越えるたび、一定のリズムで体が揺れる。

窓の外を流れる景色を見ていたはずなのに、
気づいたら、視界が少しだけ滲んでいた。

「……大丈夫?」

ぱちぇの声が近い。

「うん……ちょっと、酔ったかも」

正直に言うと、
ぱちぇは何も言わずに立ち上がった。

「次、席空いたら座ろ」

そう言って、
自分の位置を少しずらす。

それだけなのに、
胸の奥が、すっと落ち着いた。

席に座ると、
ぱちぇがコンビニの袋から水を出してくれる。

キャップを開けて、手渡す。
慣れた動き。

「無理だったら、降りてもいいから」

責めるでも、急かすでもない声。

「……うん」

本当に、降りてもいいんだ、と思えた。

それだけで、
気分の悪さは、少し引いていった。

電車は、静かに県境を越える。

「ね」

窓の外を見たまま、ぱちぇが言う。

「ここさ」

一瞬、言葉を探す間。

「なんて呼ぶ?」

その問いに、
胸が、少しだけ跳ねた。

「……まだ、いい」

自分でも、驚くくらい素直に出た。

「名前つけたらさ」

少し考えてから続ける。

「本当に、ここに来ちゃった感じする」

ぱちぇは、小さく笑った。

「もう来てるけどね」

「うん」

それでも。

「今は、まだいい」

そう言うと、
ぱちぇはそれ以上、聞かなかった。

ただ、指を絡めてくる。

「じゃあ、名前は後で」

「うん」

その“後で”が、
戻る場所じゃないことは、
二人とも分かっていた。

再び、電車が揺れる。

さっきより、少しだけ楽だった。

体調が戻ったわけじゃない。
不安が消えたわけでもない。

でも――
隣にいる人が、
進むのも、止まるのも、
一緒に選んでくれる。

それだけで、
この移動は、逃避じゃなくなっていた。

荷物は、全部ぱちぇが持ってくれていた。
重さを分けようとすると、「大丈夫」と短く言われる。

その言葉が、やけに頼もしい。

電車に揺られながら、外を流れる景色を見る。
見慣れた建物が、少しずつ減っていく。

県境を越える瞬間、
何かが切り替わった気がした。

ひとつ隣の県で降りて、
駅前から少し歩いたところにある、安いホテル。

外観は古くて、
ロビーも必要最低限。

でも、その日はそれでよかった。

部屋に入って、鍵を閉める音がして、
初めて「二人きり」になる。

「……来たね」
「うん。来た」

短いやり取りなのに、胸の奥が熱くなる。

再会できた喜びが、まだ体の中に残っていて、
何をするでもなく、ただ近くにいるだけで、満たされていた。

夜、並んで座って、
コンビニで買ったご飯を食べる。

特別なものじゃない。
でも、同じタイミングで「美味しいね」と言えるのが、嬉しい。