バイバイを書いた夜、君が来た ――あの夜、君の声が僕を繋ぎ止めた

最低限の荷物だけを選ぶ。

床に並べたものは、思っていたより少なかった。
着替え。
常備薬。
ずっと一緒に過ごしたぬいぐるみ。
ぱちぇがくれた物。
指輪を入れた、小さなケース。

それだけで、生活は成り立つらしい。

逆に、残していくものの方が多かった。

机の上に置いたままの、配信用のマイク。
角度を微調整するために何度も触ったアーム。
使い慣れたヘッドホンは、コードをまとめることもなく、そのまま置いた。

電源は落とした。
でも、片付けなかった。

もう使わないからじゃない。
「終わらせる」みたいで、できなかった。

棚の引き出しを開けると、
途中まで書いた企画メモが、何枚も重なっていた。

思いついた言葉。
やりたかった配信。
いつか話そうと思っていたこと。

一枚だけ手に取って、眺めてから、元に戻す。

今は、持っていかない。

クローゼットの奥には、
ほとんど袖を通さなかった服が掛かっていた。

似合わなかったわけじゃない。
ただ、この先の自分には、もう必要ない気がした。

部屋を見渡す。

ここで過ごした時間が、ちゃんと残っている。
でも、それを全部抱えていく必要はない、とも思えた。

配信には、
少しの間、休止することを伝えた。

理由は、詳しく言わなかった。

説明しなかったことに、後ろめたさはなかった。
これは、逃げじゃない。
選択だ。

でも、不思議と後悔はなかった。

全部、
選んでいる感覚があったから。

そして、当日。

玄関で靴を履き、
最後にもう一度だけ、部屋を振り返る。

何かを忘れている気がして、
でも、それが何なのかは分からなかった。

ドアを閉める。
鍵を回す音が、やけに大きく響く。

その鍵を、
玄関横の郵便受けに入れる。

金属が当たる、軽い音。

返した、というより――
手放した、に近かった。

これで、この部屋に戻る理由はなくなった。

郵便受けの蓋を閉めて、
深く息を吸う。

それだけで、少しだけ体が軽くなった。

外に出ると、
約束していた場所に、ぱちぇが立っていた。

思っていたより、ずっと近くに。

目が合った瞬間、
お互いに一瞬、動けなくなる。

「……おはよ」

先に言ったのは、ぱちぇだった。

「おはよう」

声を出したら、
ちゃんと現実になった気がした。

ぱちぇの足元には、
小さめのリュックと、ボストンバッグひとつ。

それだけ。

引っ越しという言葉から想像する量とは、
明らかに違っていた。

「それ……全部?」

思わず聞くと、
ぱちぇは少しだけ肩をすくめる。

「うん。最低限」

その言い方が、
まるで当たり前みたいで。

生活を丸ごと持っていくんじゃない。
“これから作る”前提の荷物。

そういう軽さだった。

視線が、
僕の足元のキャリーケースに落ちる。

次の瞬間、
ぱちぇが何も言わずに手を伸ばした。

「持つよ」

反射的に、
取っ手から手を離してしまう。

キャリーケースが、
そのままぱちぇの方へ引き寄せられる。

「あ……」

止める間もなかった。

「大丈夫」

短く言って、
重さを確かめるみたいに、一度持ち上げる。

その仕草が、やけに慣れていて。
何だか凄く安心した。

守るとか、引っ張るとかじゃなくて。
一緒に運ぶ、という選択。

ぱちぇと合流して、
並んで歩く。

向かう先は、
二人とも住んだことのない県。

知っているものは、少ない。

でも――
隣にいる人だけは、確かだった。

「行こうか」

ぱちぇのその一言で、
全部が始まる。

二人で生きると決めた、
最初の一歩。

過去を置いて、
未来へ向かう。

知らない土地へ。

――二人で。