バイバイを書いた夜、君が来た ――あの夜、君の声が僕を繋ぎ止めた

「だからさ」

少し、声が低くなる。

軽くしようとしていない。
冗談に逃げようともしていない。

「今度は、俺の番だと思った」

その言葉の裏に、
“待つだけの側”でいる覚悟と、
それでも伝えたい衝動が滲んでいた。

深く息を吸う音。

整えようとしている。
崩れないように、必死に。

「……あのさ」

一拍。

「今、話しても……いい?」

慎重で、でも逃げ道を残さない問い。

その問いには、
覚悟と、恐怖と、祈りみたいなものが混じっていた。

「うん」

短く答える。

それ以上、言えなかった。
言葉を足したら、彼の決意を遮ってしまいそうで。

しばらく、言葉が続かない。

呼吸だけが、通話に残る。
遠いはずの距離が、やけに近い。

そして、やっと。

「俺、昔……癌だった」

その一言で、空気が変わる。

重い。
でも、誤魔化していない。

そこから、ゆっくり話し始める。

言葉を選びながら、
過去を一つずつ掘り起こすみたいに。

治療のこと。
先が見えなかった時間。

いつ終わるか分からない痛み。
生きている感覚が薄れていく日々。

「その頃、同棲してた恋人がいてさ」

 一瞬、声が詰まる。

 思い出したくなかったはずの場面。

「でも、ある日……夜逃げされた」

淡々としているのに、そこに感情がないわけじゃない。

理由も分からないまま、
生活だけが壊れたこと。

何も無くなった部屋。
説明のない不在。

「それから、人と距離を置くようになった」

「一人で生きるって、決めた」

「誰にも期待しないって」

決意というより、防御だった。

静かな声。

「母親とも、その頃に決定的に拗れて」

「……なんで産んだんだ、って言った」

吐き出すような言葉。
後悔と、怒りと、悲しさが絡まっている。

そこから、声が震え始める。

「昨日まで、連絡取ってなかった」

「でも……昨日、和解した」

昨日。
僕が、自分の現実と向き合った、その日。

「結依が、逃げずに向き合おうとしてるって聞いて」

「俺も、逃げたままじゃいられなかった」

真似じゃない。
依存でもない。

“一緒に前を向く”という選択。

その先、言葉が続かない。

……泣いている。

嗚咽はない。
声を抑えた、大人の泣き方。

僕は、ゆっくり息を吸う。

ここで感情に流されたら、
彼の話を受け止めきれなくなる。

泣かない。
ここでは、泣かない。

これは、彼がくれた“信頼”の時間だから。