バイバイを書いた夜、君が来た ――あの夜、君の声が僕を繋ぎ止めた

部屋の中は、まだ音が少なかった。
冷蔵庫は空で、カーテンもなくて、床に置いた荷物がやけに目立つ。

ここで暮らす、という実感は、まだ輪郭が曖昧だ。
それでも、足元はちゃんと地面に触れている。

昔なら、きっと考えていた。
この選択は正しかったのか。
もっと準備してからの方がよかったんじゃないか。
迷惑をかけていないか、重荷になっていないか。

そうやって、自分を納得させる理由を、いくつも並べていたと思う。

でも今は――
それをしなくていい。

「ちゃんとしなきゃ」
「役に立たなきゃ」
「一人で立たなきゃ」

そういう言葉が、胸の中から静かに抜け落ちていく。

何かを失った感覚は、確かにある。
慣れた場所。
積み上げてきた日常。
自分で選んだはずの、安心できる距離。

でも、それ以上に。

ここには、
考えなくていい時間があった。
守ろうとしなくていい自分がいた。

「傍にいる」ことを、
条件付きで許されるんじゃなくて、
そのままで受け取ってもらえる場所。

ぱちぇが、隣に立っている。
触れてはいないのに、存在だけで分かる。

逃げてきたわけじゃない。
選んできた結果が、ここだった。

そう思えた瞬間、
胸の奥でずっと張りつめていたものが、ほどけた。

僕はそのまま、ぱちぇの肩に額を預ける。
受け止めるみたいに、ぱちぇの腕が回ってくる。

何も決まっていないことは、まだたくさんある。
家具も、生活のリズムも、細かい約束も。

それでも。

この腕の中で、息をしていられること。
同じ場所で、同じ時間を重ねていけること。

それだけで、十分だった。

ここから、二人の生活が始まる。
静かで、確かで、何よりも幸せな時間が。

僕は目を閉じて、そう確信していた。

【END】