夜の空気は、職場の匂いを連れて帰ってくる。
玄関のドアを閉めた瞬間、外の音が薄い膜の向こうへ押し戻される。
鍵を回す金属音が短く鳴り、廊下の照明が白く点いた。
白すぎる光。
一日じゅう擦り切れた目には、少しだけ攻撃的だ。
靴を脱ぐ。揃えない。
つま先が内側を向いたまま、床に残る。
コートを脱いでハンガーに掛ける。
袖が片方だけ、ずるりと落ちる。
直そうとして伸ばした指が、途中で止まり、そのまま引っ込む。
……直さない。
直す理由が、今の私には見当たらなかった。
冷蔵庫を開けると、内側の光が顔に当たる。
ペットボトルを一本取り出し、キャップを回し、少しだけ飲む。
喉を通る冷たさは、胸の奥に届く前に消えた。
水は身体の表面をなぞるだけで、すぐに去っていく。
今の私みたいだ、と思う。
キッチンカウンターにボトルを置き、リビングへ戻る。
部屋は変わっていない。
数日前と同じ配置、同じ生活の痕跡、同じ静けさ。
テーブルの角に置きっぱなしの郵便物。
読みかけの雑誌。
絡まったままの充電コード。
すべてが、
私の中で何かが変わったことなんて知らない顔をしている。
ソファに腰を下ろす。
クッションが、ほんの少し遅れて沈んだ。
その遅れが、心の遅れに似ていて、
笑うほどでもないのに、口元がわずかに引きつる。
テレビはつけない。
音楽も流さない。
音を入れたら、今日という一日をまた誤魔化せる。
誤魔化すことが習慣になったら、
私はこのまま、永遠に「追いつかない側」に留まってしまう気がした。
――数日が、過ぎていた。
あの日、駅前で声をかけられてから。
名刺を受け取った。
バッグに入れた。
家に帰ってから取り出した記憶は、ない。
興味がなかったわけじゃない。
正確には、興味を持つ余裕がなかった。
夢や希望に手を伸ばすより先に、
現実の皮膚感覚が、あまりにも痛かった。
街を歩くと、視線を感じる。
すれ違う人の顔が、以前よりはっきりこちらを見る。
それは優しさでも、悪意でもない。
ただの「反応」だ。
光に虫が寄るみたいな、条件反射。
そこに意味を探そうとすると、
意味のないものが、針の形を取る。
私は、その針に、数日間ずっと刺され続けていた。
刺されているのに、慣れたふりをして。
慣れたふりをしているうちに、
痛みが消えるわけじゃない。
痛みは、ただ深くなる。
表面から姿を消す代わりに、
骨の近くまで、静かに潜っていく。
ソファの背に頭を預ける。
天井に映る影が、薄く揺れている。
呼吸が、ようやく深くなる。
今日一日、どれだけ浅い息で過ごしていたのか、
ここに来て、やっと分かる。
床に、バッグが置かれている。
仕事用の、少し重たいバッグ。
私は、それを見る。
何かを探すつもりはない。
ただ、視界に入れただけだ。
見ることで、
この部屋に「何があるか」を確認しただけ。
その仕草は、
忘れ物を探すときの癖と、同じだった。
何を忘れてきたのか、
まだ、分からないまま。
玄関のドアを閉めた瞬間、外の音が薄い膜の向こうへ押し戻される。
鍵を回す金属音が短く鳴り、廊下の照明が白く点いた。
白すぎる光。
一日じゅう擦り切れた目には、少しだけ攻撃的だ。
靴を脱ぐ。揃えない。
つま先が内側を向いたまま、床に残る。
コートを脱いでハンガーに掛ける。
袖が片方だけ、ずるりと落ちる。
直そうとして伸ばした指が、途中で止まり、そのまま引っ込む。
……直さない。
直す理由が、今の私には見当たらなかった。
冷蔵庫を開けると、内側の光が顔に当たる。
ペットボトルを一本取り出し、キャップを回し、少しだけ飲む。
喉を通る冷たさは、胸の奥に届く前に消えた。
水は身体の表面をなぞるだけで、すぐに去っていく。
今の私みたいだ、と思う。
キッチンカウンターにボトルを置き、リビングへ戻る。
部屋は変わっていない。
数日前と同じ配置、同じ生活の痕跡、同じ静けさ。
テーブルの角に置きっぱなしの郵便物。
読みかけの雑誌。
絡まったままの充電コード。
すべてが、
私の中で何かが変わったことなんて知らない顔をしている。
ソファに腰を下ろす。
クッションが、ほんの少し遅れて沈んだ。
その遅れが、心の遅れに似ていて、
笑うほどでもないのに、口元がわずかに引きつる。
テレビはつけない。
音楽も流さない。
音を入れたら、今日という一日をまた誤魔化せる。
誤魔化すことが習慣になったら、
私はこのまま、永遠に「追いつかない側」に留まってしまう気がした。
――数日が、過ぎていた。
あの日、駅前で声をかけられてから。
名刺を受け取った。
バッグに入れた。
家に帰ってから取り出した記憶は、ない。
興味がなかったわけじゃない。
正確には、興味を持つ余裕がなかった。
夢や希望に手を伸ばすより先に、
現実の皮膚感覚が、あまりにも痛かった。
街を歩くと、視線を感じる。
すれ違う人の顔が、以前よりはっきりこちらを見る。
それは優しさでも、悪意でもない。
ただの「反応」だ。
光に虫が寄るみたいな、条件反射。
そこに意味を探そうとすると、
意味のないものが、針の形を取る。
私は、その針に、数日間ずっと刺され続けていた。
刺されているのに、慣れたふりをして。
慣れたふりをしているうちに、
痛みが消えるわけじゃない。
痛みは、ただ深くなる。
表面から姿を消す代わりに、
骨の近くまで、静かに潜っていく。
ソファの背に頭を預ける。
天井に映る影が、薄く揺れている。
呼吸が、ようやく深くなる。
今日一日、どれだけ浅い息で過ごしていたのか、
ここに来て、やっと分かる。
床に、バッグが置かれている。
仕事用の、少し重たいバッグ。
私は、それを見る。
何かを探すつもりはない。
ただ、視界に入れただけだ。
見ることで、
この部屋に「何があるか」を確認しただけ。
その仕草は、
忘れ物を探すときの癖と、同じだった。
何を忘れてきたのか、
まだ、分からないまま。
