バカな男に騙された私が本当の自分を手に入れるまで


 奥の扉が、音もなく開いた。

 蝶番が鳴かない。
 何度も開閉され、油が差され、音を出さないことに慣れきった扉だ。事務所の奥にある扉は、だいたいこういう顔をしている。秘密のためではない。余計な感情を挟まないためだ。

 扉の向こうから、足音が現れる。

 規則正しいわけではない。
 急いでもいない。
 ただ、止まらない。

 歩幅が一定で、床を確かめない。ここを歩くたびに「今日は大丈夫だろうか」と考えなくていい人間の足音だった。

「おいおい」

 声が落ちる。
 落ち方が軽い。

「朝から空気が尖ってるな」

 私は、遅れて振り向いた。

 スーツの男が立っている。
 色も形も、どこにでもある。だが、しわの寄り方が違う。身体の動きに合わせてできたしわだ。会議室と現場を行き来してきた人間の服。

 この人は、ここで“決める”人だ。

 黒崎が、書類を抱え直す。

「尖ってるんじゃなくて、削ってるだけです」

「削らないと残らないからな」

 男は笑う。
 笑いは浅い。感情が沈殿していない。人を扱うことに慣れきった笑いだ。

「黒崎が言うことは、だいたい正しい」

 そう言ってから、男の視線がこちらに向く。

 黒崎の視線は刃物だった。
 この男の視線は、秤だ。

 軽いか、重いか。
 使えるか、落ちるか。

 私は、何も言われていないのに、背筋を伸ばす。
 その動きが、自分でも情けない。

「……で」

 男が言う。
 言葉の前に、間がある。

「君が、朝霧が連れてきた人?」

 連れてきた。
 その言い方が、胸の奥を押す。

 私は頷く。
 声を出すより先に、首が動いた。ここで声を出すのが、なぜか怖かった。

 男は小さく「ふうん」と言う。

 評価は、まだない。

 黒崎が間を詰める。

「顔だけで拾ってきた、って話です」

 拾う。
 拾われる。

 言葉が、骨に当たる。

 男は、気にした様子もなく肩をすくめた。

「拾える顔なら、拾えばいい」

 軽い。
 驚くほど軽い。

「顔は武器だろ。武器があるなら、まず持たせる。握れなきゃ捨てる。握れるなら使う。それだけだ」

 正論だった。
 冷たい正論は、間違っていないぶんだけ逃げ場がない。

 黒崎は黙る。
 その沈黙が、この言葉を何度も飲み込んできた証拠だった。

 そのとき。

「……神崎さん」

 朝霧の声が、空気に割り込む。

 柔らかい声だ。
 だが、退いていない。

「今日の話なんですが——」

「朝霧」

 男が、被せる。

 声は低くも高くもない。
 感情が乗っていないのが、いちばん怖い。

「君は、まだ喋らなくていい」

 朝霧の言葉が、途中で止まる。
 止められた、というより、切られた。

 朝霧は一瞬、口を開きかけて、閉じる。
 その間に、何かを飲み込む。

「……ですが」

「いい」

 神崎は、短く言った。

 声を荒げない。
 理由も説明しない。

 それだけで、場の序列が確定する。

「今は、本人の時間だ」

 本人。

 その言葉が、私に落ちる。
 守る言葉じゃない。突き放す言葉だ。

 朝霧は黙る。
 黙らされたまま、席を外さない。
 ここで黙ることも仕事だと理解している顔。

 神崎が、私を見る。

「名前、聞いてなかったな」

 名前。

 喉の奥が、きしむ。

 私は、名前を何度も使ってきた。
 そのたびに、何も変わらなかった。

 騙された夜、
 その男は私の名前を呼ばなかった。
 呼ばなくてもいい存在だと思われていた。

 ここで名乗るということは、
 それを全部引き受けたまま、立つということだ。

 一瞬、逃げたい衝動が走る。
 名乗らなければ、まだ誰でもない。

 でも、それは——
 また、選ばないという選択だ。

 私は息を吸う。
 浅い呼吸。
 逃げないための呼吸。

「……宮坂です」

 声は低い。
 自分でも驚くほど、揺れていない。

 神崎が頷く。

「下の名前は?」

 確認。
 促しじゃない。

 私は、迷う。
 この名前は、呼ばれると弱くなる。

 それでも。

「……透子です」

 言った瞬間、胸の奥で何かが剥がれる。
 痛い。
 でも、立っている。

 黒崎の視線が変わる。
 値踏みから、耐久を見る目へ。

 神崎が、初めて少しだけ深く笑った。

「宮坂透子。悪くない」

 褒め言葉じゃない。
 でも、否定でもない。

「俺は神崎。社長やってる」

 それだけ。

「立ち話もなんだ。中で話そう」

 背を向ける。
 場が、自然と従う。

 廊下を進む。
 積まれた段ボール。
 剥がれかけたガムテープ。
 手書きの文字——返却、至急、現金。

 夢の裏側。
 ここは、夢を売るために現実を削る場所だ。

 面談室に入る。

 簡素な机。
 硬い椅子。

 私は座る。

 朝霧が隣に座る。
 黙ったまま。
 だが、逃げていない。

 黒崎は壁際。
 神崎は正面。

 逃げ場はない。

 それでも、私はここにいる。

 ——バカな男に騙された。
 でも、それで終わりじゃない。

 本当の自分は、
 誰かに守られた場所じゃなく、
 黙らされても立っていられる場所にしかいない。

 神崎が、指を組む。

「じゃあ、宮坂さん」

 名前を呼ばれる。
 この顔で。

「何しに来た?」