バカな男に騙された私が本当の自分を手に入れるまで


振り向くと、青年が立っていた。

背は高すぎず、低すぎない。
スーツは整っているが、身体に完全には馴染んでいない。新品ではない。それでも、まだ借り物の匂いが残っている。持ち主の輪郭より先に、仕事の型が着られている服だ。

「……お待たせしました」

声は柔らかい。
だが、甘さはない。
人を迎え入れるための声であって、迎え入れすぎないための抑制がある。

私は立ち上がる。
ほんの一拍、遅れた。

遅れを取り戻そうとして、動きが一瞬ぎこちなくなる。
そのぎこちなさを、自分で意識してしまった瞬間、余計に目立つ気がして、唇を噛む。

「いえ……」

それ以上の言葉が、出てこない。

朝霧は軽く頭を下げる。
深すぎない角度。
深く下げないことで、丁寧さと立場を同時に保つ下げ方だ。

「こちらです」

そう言って、彼は半歩前を歩き出す。

半歩。

近すぎず、遠すぎない。
その距離に、彼の性格がそのまま現れている。
守ろうとしない。
突き放しもしない。

柔らかさは、優柔不断の結果ではなく、選択だ。

そのとき、背後で椅子が鳴った。

「ねえ、朝霧」

声が飛ぶ。
軽い。
軽いが、刃の重さを知っている音だ。

振り返ると、受付にいた女が立っている。
書類の束を片手に、体重を片脚に預けた姿勢。
力は抜けているのに、視線は一切逃げない。

「また“顔だけ”で拾ってきたの?」

言葉が、空気を切る。
切られたのは、私だ。

胃の奥が縮む。
反射で背筋を伸ばす。
伸ばしたところで何も変わらないと、もう分かっているのに。

「……そういうつもりでは」

朝霧が言いかける。
言いかけたところで、女の声が被さる。

「前の子、一か月もたなかったでしょ」

一か月。

期間が具体的なだけで、現実が一気に近づく。
それは失敗ではない。
消耗だ。
現場にとっての損失だ。

朝霧は口を閉じる。
閉じたというより、閉ざされた。

女の視線が、今度は私に向く。
もう遠慮はない。

顔を、じっくり見る。
見られているというより、測られている。

「……こういう顔、だいたい早いのよ」

早い。

言い切られた瞬間、胸の奥で何かが落ちる。
まだ何もしていない。
それでも、結果だけが先に置かれる。

「苦労が顔に出てない。
 自分が何者か、まだ分かってない顔」

言葉が、静かに刺さる。
音は立たない。
音が立たないから、抜けない。

私は、何も言えない。

反論が浮かばないわけじゃない。
浮かんだ反論が、どれも弱いと分かってしまうからだ。

——知らないくせに。

そう思う。
同時に、

——でも、そうかもしれない。

とも思ってしまう。

その揺れが、私の口を閉ざす。

女は続ける。

「人生舐め切った顔立ちってあるでしょ。
 綺麗なのに、中身がまだ空っぽのやつ」

空っぽ。

その言葉に、反射で喉が鳴る。
否定したい。
けれど、胸の奥で何かが、わずかに肯定してしまう。

私は、ここに来るまで、
自分が何者かを決めないまま生きてきた。

決めないことを、慎重さだと思っていた。
でもそれは、選ばないことの言い換えだったのかもしれない。

朝霧が、息を吸う。

「……話を聞くだけでも、と思いました」

それだけだ。
否定しない。
庇わない。

ただ、切らない。

女は肩をすくめる。

「“話を聞くだけ”はタダ。でも、その先はタダじゃない。
 うちは大手じゃないの。夢見て来られると困る」

笑いが混じる。
笑いが混じるほど、本音だ。

私は、立っている。
逃げたい。
でも、足が動かない。

動かない理由が、勇気なのか、恐怖なのか、分からない。
分からないまま、ここに立っている。

そのとき、奥の扉が開く音がした。

空気が、はっきりと変わる。

誰かが割って入ってくる。
それだけで、この場の重さが、別の形に組み替えられる。

私は、その変化を感じ取りながら、
まだ自分の名前を言えないまま、
そこに立っていた。

ここで、判断される前の、
最後の一拍として。