ユイ・リア・カイドウとミカゲ・カイ・マガミの婚姻式を前日に控えたその夜。
一度はベッドに入ったものの、深夜になってから目が覚めてしまった。
キングサイズの大きなベッドにたった一人。
一度だけミカゲが横で寝たことがあった。
明日の夜からはもうこのベッドで一緒に寝ることになるだろう。
そう思うと胸が張り裂けそうだった。
ユイは左手の薬指を見つめる。
本当はヒロトから貰ったファミリー・リングと婚約指輪が収まるはずだった指。
今はそこにミカゲから貰ったファミリー・リングと婚約指輪が収まっている。
「なんでこんなに切ないの……。やめよ……」
苦しいのも切ないのも全部、自分が選んだ結果だ。
今更、後悔してどうするのだ。
アヤカがユーリの面倒をみてくれている。
明日のために少しでも寝ておきなさいと、彼女は言ってくれた。
窓からの月光に照らされた純白のウェディングドレスを見つめる。
母が着たウェディングドレスをリメイクしたものだ。
今はそのドレスを見るのが辛い。
ユイは部屋を出て、キッチンへ向かった。
何がしたかったわけでもない。
一心不乱に手を動かすことで、忘れたかった。
上書きされてしまう自分の未来への恐怖を。
大きな冷蔵庫のそばに、小さな冷蔵庫がある。
それはユイがひとり暮らしをしていた頃に使用していた冷蔵庫だ。
今はMathew用のお菓子の食材が入っている。
Mathewはお菓子作りが気に入ったらしく、趣味なのかスイーツを作る。
この間は赤い野菜を使って奇抜なクッキーを作っていた。
(本当にヒロトが言ったとおりになっちゃったな……)
『マシューはきっとユイの胃袋を掴むと思う』
ヒロトはそれだけは渡したくないと言っていた。
あの時はマシューが胃袋を掴むことが確定するのか分からなかった。
でもあの頃からヒロトにはこの未来が見えていたのだ。
ユイは苦笑する。
ヒロトは何もかも分かっていながら――、
それでも最後に『ずっと君のそばにいると誓う』と言葉を残す、そんな人。
そんなヒロトに愛されて、どれだけ幸せだっただろう。
そう思いながら、ユイは生地を丁寧に計量していく。
昔は計量せずに材料を適当に計ってた。
マシューにそれを指摘され、丁寧に計量をするようになった。
すると調理が、驚くほど上達したし味付けに磨きがかかった。
そんなマシューさえも、もう手の届く場所には居ない。
――そう、愛した存在はみんな消えていく。
だから、もう誰も、愛せない。……愛してはならない。
「……ユイ。どうした……? 眠れないのか?」
トレイには使用済みのコーヒーカップが6つ載っている。
「あ……」
入口にはMathewが立っていた。
黒いシャツにラフな綿パン。
執事服でも護衛の制服でもない服装のMathewを見るのは初めてだ。
「ちょっと……ね、手を動かしてみたくなったの」
ざわつく心臓をクールダウンさせながら、ユイは生地を捏ねた。
Mathewは何も言わない。
ただ視線を感じる。穏やかだけど熱い……その視線を。
Mathewはキッチンの脇にあるお菓子のレシピ本を手に取り、開き始めた。
それはかつて私が使っていたものだ。
「……つくる物は、既に決まっているのか?」
「うん。……アーモンドを使ったお菓子にしようと思ってる」
22ページ目のフロランタン。
ここに当時からの付箋がまだついてる。
このフロランタンが気に入って何度も挑戦した。
でも、いつもうまく焼けなかった。
「ユイはこれが好きだったな。何度も作っていた」
「……覚えているんだね」
「そうだな。焦がすことを懸念して、火力を随分加減していたと思う」
Mathewは距離を取って、腰かけに座わる。
よく見ていると思った。
でもそんな指摘は一度もしたことが無かったと思う。
「側にいてくれるの? あの時みたいに」
「ああ。俺がここに居ても良いならな。……独りになりたかったんだろう?」
Mathewはちゃんとわかっている。
私がここにいる理由を。
私が必死で維持しようとしている境界線を守ろうとしてくれる。
「違うよ。ホントはそうじゃない」
独りになりたかったのではなく、今夜だけはあなたと一緒にいたかった。
そんな言葉をユイは呑み込んだ。
「全ての熱が境界線を壊すわけではない。熱そのものを否定する必要はない……と思う」
「え……?」
ユイは耳を疑った。
今、なんて――?
思わず手が滑った。
アーモンドを刻んでいた小さな包丁が、まな板からずれ落ちた。
乾いた音を立てて床に転がる。
「しょうがない奴だな……、気を付けてくれ」
無表情のまま、Mathewは転がる包丁を拾い、水を貼った桶の中に入れる。
「あ、うん。……ありがとう」
冷静な声でそう言うのが精いっぱいだった。
Mathewの言葉を理解しようと、受け止めようとすればするほど心臓が高鳴る。
それから2時間。
フロランタンは初めて成功した状態で焼き上がった。
窓に目をやれば、以前マシューとみたあの東雲の光が見える。
「今なら1時間でも眠れるはずだ」
ユイは頷く。
自分が選んだ道から逃げないとあの日、決めた。
それはいまも続くのだ。
「おやすみ、Mathew。それとね、……ありがとう」
その“ありがとう”に言葉にしてはならない想いを隠す。
熱を否定する必要はないと言いながら、境界線は保たなければならない。
(いつから……? いつから私は……)
――あなたを想うのは罪じゃない。でもあなたを想った結果を望んでしまう。
去っていくユイの背中をMathewは以前のように追いかけなかった。
Mathewはただ独りキッチンで沈黙したまま、その目をゆっくりと閉じた。
一度はベッドに入ったものの、深夜になってから目が覚めてしまった。
キングサイズの大きなベッドにたった一人。
一度だけミカゲが横で寝たことがあった。
明日の夜からはもうこのベッドで一緒に寝ることになるだろう。
そう思うと胸が張り裂けそうだった。
ユイは左手の薬指を見つめる。
本当はヒロトから貰ったファミリー・リングと婚約指輪が収まるはずだった指。
今はそこにミカゲから貰ったファミリー・リングと婚約指輪が収まっている。
「なんでこんなに切ないの……。やめよ……」
苦しいのも切ないのも全部、自分が選んだ結果だ。
今更、後悔してどうするのだ。
アヤカがユーリの面倒をみてくれている。
明日のために少しでも寝ておきなさいと、彼女は言ってくれた。
窓からの月光に照らされた純白のウェディングドレスを見つめる。
母が着たウェディングドレスをリメイクしたものだ。
今はそのドレスを見るのが辛い。
ユイは部屋を出て、キッチンへ向かった。
何がしたかったわけでもない。
一心不乱に手を動かすことで、忘れたかった。
上書きされてしまう自分の未来への恐怖を。
大きな冷蔵庫のそばに、小さな冷蔵庫がある。
それはユイがひとり暮らしをしていた頃に使用していた冷蔵庫だ。
今はMathew用のお菓子の食材が入っている。
Mathewはお菓子作りが気に入ったらしく、趣味なのかスイーツを作る。
この間は赤い野菜を使って奇抜なクッキーを作っていた。
(本当にヒロトが言ったとおりになっちゃったな……)
『マシューはきっとユイの胃袋を掴むと思う』
ヒロトはそれだけは渡したくないと言っていた。
あの時はマシューが胃袋を掴むことが確定するのか分からなかった。
でもあの頃からヒロトにはこの未来が見えていたのだ。
ユイは苦笑する。
ヒロトは何もかも分かっていながら――、
それでも最後に『ずっと君のそばにいると誓う』と言葉を残す、そんな人。
そんなヒロトに愛されて、どれだけ幸せだっただろう。
そう思いながら、ユイは生地を丁寧に計量していく。
昔は計量せずに材料を適当に計ってた。
マシューにそれを指摘され、丁寧に計量をするようになった。
すると調理が、驚くほど上達したし味付けに磨きがかかった。
そんなマシューさえも、もう手の届く場所には居ない。
――そう、愛した存在はみんな消えていく。
だから、もう誰も、愛せない。……愛してはならない。
「……ユイ。どうした……? 眠れないのか?」
トレイには使用済みのコーヒーカップが6つ載っている。
「あ……」
入口にはMathewが立っていた。
黒いシャツにラフな綿パン。
執事服でも護衛の制服でもない服装のMathewを見るのは初めてだ。
「ちょっと……ね、手を動かしてみたくなったの」
ざわつく心臓をクールダウンさせながら、ユイは生地を捏ねた。
Mathewは何も言わない。
ただ視線を感じる。穏やかだけど熱い……その視線を。
Mathewはキッチンの脇にあるお菓子のレシピ本を手に取り、開き始めた。
それはかつて私が使っていたものだ。
「……つくる物は、既に決まっているのか?」
「うん。……アーモンドを使ったお菓子にしようと思ってる」
22ページ目のフロランタン。
ここに当時からの付箋がまだついてる。
このフロランタンが気に入って何度も挑戦した。
でも、いつもうまく焼けなかった。
「ユイはこれが好きだったな。何度も作っていた」
「……覚えているんだね」
「そうだな。焦がすことを懸念して、火力を随分加減していたと思う」
Mathewは距離を取って、腰かけに座わる。
よく見ていると思った。
でもそんな指摘は一度もしたことが無かったと思う。
「側にいてくれるの? あの時みたいに」
「ああ。俺がここに居ても良いならな。……独りになりたかったんだろう?」
Mathewはちゃんとわかっている。
私がここにいる理由を。
私が必死で維持しようとしている境界線を守ろうとしてくれる。
「違うよ。ホントはそうじゃない」
独りになりたかったのではなく、今夜だけはあなたと一緒にいたかった。
そんな言葉をユイは呑み込んだ。
「全ての熱が境界線を壊すわけではない。熱そのものを否定する必要はない……と思う」
「え……?」
ユイは耳を疑った。
今、なんて――?
思わず手が滑った。
アーモンドを刻んでいた小さな包丁が、まな板からずれ落ちた。
乾いた音を立てて床に転がる。
「しょうがない奴だな……、気を付けてくれ」
無表情のまま、Mathewは転がる包丁を拾い、水を貼った桶の中に入れる。
「あ、うん。……ありがとう」
冷静な声でそう言うのが精いっぱいだった。
Mathewの言葉を理解しようと、受け止めようとすればするほど心臓が高鳴る。
それから2時間。
フロランタンは初めて成功した状態で焼き上がった。
窓に目をやれば、以前マシューとみたあの東雲の光が見える。
「今なら1時間でも眠れるはずだ」
ユイは頷く。
自分が選んだ道から逃げないとあの日、決めた。
それはいまも続くのだ。
「おやすみ、Mathew。それとね、……ありがとう」
その“ありがとう”に言葉にしてはならない想いを隠す。
熱を否定する必要はないと言いながら、境界線は保たなければならない。
(いつから……? いつから私は……)
――あなたを想うのは罪じゃない。でもあなたを想った結果を望んでしまう。
去っていくユイの背中をMathewは以前のように追いかけなかった。
Mathewはただ独りキッチンで沈黙したまま、その目をゆっくりと閉じた。
