08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

 ユイ・リア・カイドウとミカゲ・カイ・マガミの婚姻式を前日に控えたその夜。
 一度はベッドに入ったものの、深夜になってから目が覚めてしまった。
 キングサイズの大きなベッドにたった一人。
 一度だけミカゲが横で寝たことがあった。
 明日の夜からはもうこのベッドで一緒に寝ることになるだろう。
 そう思うと胸が張り裂けそうだった。

 ユイは左手の薬指を見つめる。
 本当はヒロトから貰ったファミリー・リングと婚約指輪が収まるはずだった指。
 今はそこにミカゲから貰ったファミリー・リングと婚約指輪が収まっている。

「なんでこんなに切ないの……。やめよ……」

 苦しいのも切ないのも全部、自分が選んだ結果だ。
 今更、後悔してどうするのだ。
 アヤカがユーリの面倒をみてくれている。
 明日のために少しでも寝ておきなさいと、彼女は言ってくれた。
 
 窓からの月光に照らされた純白のウェディングドレスを見つめる。
 母が着たウェディングドレスをリメイクしたものだ。
 今はそのドレスを見るのが辛い。

 ユイは部屋を出て、キッチンへ向かった。
 何がしたかったわけでもない。
 一心不乱に手を動かすことで、忘れたかった。 
 上書きされてしまう自分の未来への恐怖を。
  
 大きな冷蔵庫のそばに、小さな冷蔵庫がある。
 それはユイがひとり暮らしをしていた頃に使用していた冷蔵庫だ。
 今はMathew用のお菓子の食材が入っている。
 Mathewはお菓子作りが気に入ったらしく、趣味なのかスイーツを作る。
 この間は赤い野菜を使って奇抜なクッキーを作っていた。
 
(本当にヒロトが言ったとおりになっちゃったな……)

『マシューはきっとユイの胃袋を掴むと思う』

 ヒロトはそれだけは渡したくないと言っていた。
 あの時はマシューが胃袋を掴むことが確定するのか分からなかった。
 でもあの頃からヒロトにはこの未来が見えていたのだ。

 ユイは苦笑する。
 ヒロトは何もかも分かっていながら――、
 それでも最後に『ずっと君のそばにいると誓う』と言葉を残す、そんな人。
 そんなヒロトに愛されて、どれだけ幸せだっただろう。

 そう思いながら、ユイは生地を丁寧に計量していく。
 昔は計量せずに材料を適当に計ってた。
 マシューにそれを指摘され、丁寧に計量をするようになった。
 すると調理が、驚くほど上達したし味付けに磨きがかかった。
 そんなマシューさえも、もう手の届く場所には居ない。

 ――そう、愛した存在はみんな消えていく。
 だから、もう誰も、愛せない。……愛してはならない。

「……ユイ。どうした……? 眠れないのか?」

 トレイには使用済みのコーヒーカップが6つ載っている。

「あ……」

 入口にはMathewが立っていた。
 黒いシャツにラフな綿パン。
 執事服でも護衛の制服でもない服装のMathewを見るのは初めてだ。

「ちょっと……ね、手を動かしてみたくなったの」

 ざわつく心臓をクールダウンさせながら、ユイは生地を捏ねた。
 Mathewは何も言わない。
 ただ視線を感じる。穏やかだけど熱い……その視線を。
 Mathewはキッチンの脇にあるお菓子のレシピ本を手に取り、開き始めた。
 それはかつて私が使っていたものだ。
 
「……つくる物は、既に決まっているのか?」
「うん。……アーモンドを使ったお菓子にしようと思ってる」   
  
 22ページ目のフロランタン。
 ここに当時からの付箋がまだついてる。
 このフロランタンが気に入って何度も挑戦した。
 でも、いつもうまく焼けなかった。
    
「ユイはこれが好きだったな。何度も作っていた」  
「……覚えているんだね」
「そうだな。焦がすことを懸念して、火力を随分加減していたと思う」

 Mathewは距離を取って、腰かけに座わる。
 よく見ていると思った。
 でもそんな指摘は一度もしたことが無かったと思う。
 
「側にいてくれるの? あの時みたいに」
「ああ。俺がここに居ても良いならな。……独りになりたかったんだろう?」
 
 Mathewはちゃんとわかっている。
 私がここにいる理由を。
 私が必死で維持しようとしている境界線を守ろうとしてくれる。  

「違うよ。ホントはそうじゃない」

 独りになりたかったのではなく、今夜だけはあなたと一緒にいたかった。
 そんな言葉をユイは呑み込んだ。

「全ての熱が境界線を壊すわけではない。熱そのものを否定する必要はない……と思う」
「え……?」

 ユイは耳を疑った。
 今、なんて――?
 思わず手が滑った。
 アーモンドを刻んでいた小さな包丁が、まな板からずれ落ちた。
 乾いた音を立てて床に転がる。
 
「しょうがない奴だな……、気を付けてくれ」   
 
 無表情のまま、Mathewは転がる包丁を拾い、水を貼った桶の中に入れる。
  
「あ、うん。……ありがとう」

 冷静な声でそう言うのが精いっぱいだった。
 Mathewの言葉を理解しようと、受け止めようとすればするほど心臓が高鳴る。

 それから2時間。
 フロランタンは初めて成功した状態で焼き上がった。
 窓に目をやれば、以前マシューとみたあの東雲の光が見える。
 
「今なら1時間でも眠れるはずだ」

 ユイは頷く。
 自分が選んだ道から逃げないとあの日、決めた。
 それはいまも続くのだ。

「おやすみ、Mathew。それとね、……ありがとう」

 その“ありがとう”に言葉にしてはならない想いを隠す。
 熱を否定する必要はないと言いながら、境界線は保たなければならない。

(いつから……? いつから私は……)

 ――あなたを想うのは罪じゃない。でもあなたを想った結果を望んでしまう。  

 去っていくユイの背中をMathewは以前のように追いかけなかった。
 Mathewはただ独りキッチンで沈黙したまま、その目をゆっくりと閉じた。