その日、私はアゼレウス社を退職した。
祖父アレン・リード・レゼルは、何も言わなかった。
「……順調なのかい?」
「うん」
たったそれだけの短い会話だった。
お腹の子が誰の子なのかなんて野暮なことは聞く人じゃなかった。
妊娠3か月。
こんな日が来るなんて思わなかった。
部屋に戻って服を脱ぎ捨て、温かい湯に浸かる。
穏やかなハーブの香り。
いつだったかユイと一緒にショッピングをした時に購入したバスソルトだ。
目を閉じれば、あの日のことが頭に浮かぶ。
リージョンRのフィレシア・ホテル。
そのバーで、私はひとりの男性を待っていた――。
彼は予定時刻から30分ほど遅れてやって来た。
「それで、ユイに関する相談て、何?」
あからさまな警戒。
私はユイがカイドウ家に連なる存在であることを告げた。
「……だから俺に別れろって言うのか?」
「そうよ」
紫色の目が私を睨みつける。
いつの頃からか彼は伊達メガネをしなくなった。
「それは君に言われて決めることじゃない。ユイと話し合って決めることだ」
「ユイはあなたと一緒になるためなら、カイドウ家を捨てると言い出すわ。……それじゃ困るの」
私は琥珀色の蒸留酒を見つめて、言葉を続ける。
ヒロト・セナ・リーシェン。
優しいマスクの、穏やかな青年。
彼は惚れた女性に対し、真面目で誠実。
浮ついたところなんかなく、ただただ「純粋」。
ユイが惹かれるのもわかる。だって彼は太陽のような人だから。
「ユイは女王になる人なの。そしてそんなユイには堂々と横に立てる人が必要よ」
「……俺にその資格は無いと?」
「当然でしょう? 恋愛と結婚は違うのよ」
「話にならない。……帰らせてもらうよ。それと、二度と連絡はしないでくれ」
心の底から怒っているのがわかる。
けれども理性で押さえつけてる。
これで良い。
あとは部下がやってくれる。
時を待てば作戦は滞りなく――。
その背中を見つめていると、私に背を向けたままヒロトは言葉を紡いだ。
「トオルだけは裏切らないでくれ……頼む」
切ない願いだった。
どうしてそんなことを言うんだろう。
私は何も答えることが出来なかった。
――その言葉が、彼の最後の言葉になった。
―*―
グレン・ハン・グラゼル。
彼はレイハ様の従兄にあたる存在だ。
グライゼルでは私の、直属の上司でもある。
表向きは、爺さんの秘書をしている。
その彼に呼び出され、リージョンRとリージョンCを結ぶ道をレンタカーで進む。
この道は峠道で、急カーブが幾つも連続する。
『対象を確保した』
残酷な報告だった。
親友の恋人を、愛した人の友を、私はこれから“神”の供物とするのだ。
感情に引き裂かれそうな心を、必死で押し殺す。
それなのに涙が止まらなかった。
どれほど後悔しても、もう戻れない。
あの日、あの雨の日。
球骨腫に苛まれて肉体の死を迎えたときから、私は死んでいた。
レイハ様の御力でそれを乗り越えた時、明日が続くことが嬉しかった。
両親も私も。
グライゼルに忠誠を誓った。
両親はリージョンKで何人も暗殺を繰り返した。
その功績で私はレイハ様の側に仕えることが出来た。
私は、レイハ様の生ける『影』だ。
マガミ家当主のミカゲが『表』の当主であるように、私も『主』のためだけに存在する。
いや、そうでなくてはならない。
それなのに、私は。
鏡に映る自分。
金の染料が剥がれ、銀の髪があらわになる。
リージョンKのスズランの実を使った消臭剤は、副作用で髪の色を漂白する。
プラス因子が強ければ強いほど、“銀色”にマーキングされるのだ。
まだ膨らんでいないお腹にそっと触れる。
レイハ様の御力が弱まっている気がする。
私がこの世界に留まっていられるのもあと僅か……。
不幸にも宿ってしまったこの子を連れて、在るべき姿に戻らなければならない。
それでもこの煉獄から解放されるなら、後悔はない。
永遠に愛する人だけを愛したまま消えることが出来るのだから。
「トオル」
声にならない言葉がこみあげてくる。
今頃トオルは置いて来た携帯端末を見つけているだろう。
「ごめんなさい……」
シャワーヘッドから流れる水が赤い汚れを洗い落とす。
どんなに洗い流してもこの“罪”だけは決して消えることはない。
慟哭が止まらない。
感情を水に流してまた進む。
それが私の選択した道だった。
祖父アレン・リード・レゼルは、何も言わなかった。
「……順調なのかい?」
「うん」
たったそれだけの短い会話だった。
お腹の子が誰の子なのかなんて野暮なことは聞く人じゃなかった。
妊娠3か月。
こんな日が来るなんて思わなかった。
部屋に戻って服を脱ぎ捨て、温かい湯に浸かる。
穏やかなハーブの香り。
いつだったかユイと一緒にショッピングをした時に購入したバスソルトだ。
目を閉じれば、あの日のことが頭に浮かぶ。
リージョンRのフィレシア・ホテル。
そのバーで、私はひとりの男性を待っていた――。
彼は予定時刻から30分ほど遅れてやって来た。
「それで、ユイに関する相談て、何?」
あからさまな警戒。
私はユイがカイドウ家に連なる存在であることを告げた。
「……だから俺に別れろって言うのか?」
「そうよ」
紫色の目が私を睨みつける。
いつの頃からか彼は伊達メガネをしなくなった。
「それは君に言われて決めることじゃない。ユイと話し合って決めることだ」
「ユイはあなたと一緒になるためなら、カイドウ家を捨てると言い出すわ。……それじゃ困るの」
私は琥珀色の蒸留酒を見つめて、言葉を続ける。
ヒロト・セナ・リーシェン。
優しいマスクの、穏やかな青年。
彼は惚れた女性に対し、真面目で誠実。
浮ついたところなんかなく、ただただ「純粋」。
ユイが惹かれるのもわかる。だって彼は太陽のような人だから。
「ユイは女王になる人なの。そしてそんなユイには堂々と横に立てる人が必要よ」
「……俺にその資格は無いと?」
「当然でしょう? 恋愛と結婚は違うのよ」
「話にならない。……帰らせてもらうよ。それと、二度と連絡はしないでくれ」
心の底から怒っているのがわかる。
けれども理性で押さえつけてる。
これで良い。
あとは部下がやってくれる。
時を待てば作戦は滞りなく――。
その背中を見つめていると、私に背を向けたままヒロトは言葉を紡いだ。
「トオルだけは裏切らないでくれ……頼む」
切ない願いだった。
どうしてそんなことを言うんだろう。
私は何も答えることが出来なかった。
――その言葉が、彼の最後の言葉になった。
―*―
グレン・ハン・グラゼル。
彼はレイハ様の従兄にあたる存在だ。
グライゼルでは私の、直属の上司でもある。
表向きは、爺さんの秘書をしている。
その彼に呼び出され、リージョンRとリージョンCを結ぶ道をレンタカーで進む。
この道は峠道で、急カーブが幾つも連続する。
『対象を確保した』
残酷な報告だった。
親友の恋人を、愛した人の友を、私はこれから“神”の供物とするのだ。
感情に引き裂かれそうな心を、必死で押し殺す。
それなのに涙が止まらなかった。
どれほど後悔しても、もう戻れない。
あの日、あの雨の日。
球骨腫に苛まれて肉体の死を迎えたときから、私は死んでいた。
レイハ様の御力でそれを乗り越えた時、明日が続くことが嬉しかった。
両親も私も。
グライゼルに忠誠を誓った。
両親はリージョンKで何人も暗殺を繰り返した。
その功績で私はレイハ様の側に仕えることが出来た。
私は、レイハ様の生ける『影』だ。
マガミ家当主のミカゲが『表』の当主であるように、私も『主』のためだけに存在する。
いや、そうでなくてはならない。
それなのに、私は。
鏡に映る自分。
金の染料が剥がれ、銀の髪があらわになる。
リージョンKのスズランの実を使った消臭剤は、副作用で髪の色を漂白する。
プラス因子が強ければ強いほど、“銀色”にマーキングされるのだ。
まだ膨らんでいないお腹にそっと触れる。
レイハ様の御力が弱まっている気がする。
私がこの世界に留まっていられるのもあと僅か……。
不幸にも宿ってしまったこの子を連れて、在るべき姿に戻らなければならない。
それでもこの煉獄から解放されるなら、後悔はない。
永遠に愛する人だけを愛したまま消えることが出来るのだから。
「トオル」
声にならない言葉がこみあげてくる。
今頃トオルは置いて来た携帯端末を見つけているだろう。
「ごめんなさい……」
シャワーヘッドから流れる水が赤い汚れを洗い落とす。
どんなに洗い流してもこの“罪”だけは決して消えることはない。
慟哭が止まらない。
感情を水に流してまた進む。
それが私の選択した道だった。
