カイドウ家本邸の、当主執務室。
机の背後にある大きな窓を見上げると、空に浮かんだ月が欠け始めた。
もうすぐ皆既月食が始まるのだ。
別のメイドに頼んだお茶を、Mathewが運んでくる。
「ありがとう」
Mathewは持ってきたお茶を静かに机に置いた。
ユイは月食を見るために部屋の明かりを消していた。
月光に溢れた部屋がゆっくりと暗くなっていく。
「……始まったな」
そう告げるMathewが、空を見上げる。
それはユイも同じで、その視線は一途に変わりゆく月を見つめていた。
欠けていく月。暗くなる空。
月は数時間かけてまた戻っていく。その過程を忠実に追うだけ。
「うん」
月が光りを失う瞬間を、昔の人々はただ“恐怖”した。
神によって護られている、その確信が失うという不安で崩れるからなのかもしれない。
月が黒く塗りつぶされていく。
瞬きをしただけなのに、月の輪郭が“枝”に変わって見えた。
すると次第に一本の大樹の姿が見えてくる。
揺れる葉の音が聞こえる。
室内にいて風は吹いていないはずなのに、枝が揺れている。
その光景を、樹が呼吸する様子を、ユイは捕らえていた。
「……灯りは付けないのか?」
「うん。……不思議なの。月が樹に見えるんだ。だから目が離せない」
静かな夜だった。
呼吸の音と、Mathewの機械音が重なる。
「ユイ」
月食は順調だ。
欠け、沈んで――。やがて完全な影になる。
ユイが瞬きすると感じる、樹のイメージ。
目を閉じると、見えないはずの月の表面に見事なまでの大樹のビジョンが思い浮かぶ。
それは迫るように大きく見える。細部まで精巧に。
彩り鮮やかに、目に映る、美しい白い花が咲く枝垂れた枝。白い幹の樹。
鏡の様な水面に樹が反射する様子まではっきりわかる。その美しさ、荘厳さに惹かれる。
「……ユイ」
「ああごめん……。つい見とれちゃってた」
ユイがフロアランプを付ける。
黒い窓に執務室の内部が映し出される。
「お茶、頂くよ。ありがとう」
ユイがティーカップに向かって手を伸ばす。
「いや、冷めたものより温かいものがいいだろう……」
カップを下げようとMathewが手を伸ばす。
お互いの手が触れた。重なった。
意図せずに。
鼓動が一拍、遅れる。
ユイは境界線を意識して慌てて手を引っ込めた。
「あ、ごめんね。冷めててもいいんだ、Mathewが入れてくれたなら」
「夜は冷える。温かいものを用意する。……すこしだけ待っていてくれ」
Mathewの声は平坦だった。
マシューだった時の声は低かった。
一方昔聞いたルシー・フェルドの声はそれより少し高い。
それが違和感なくミックスされて、今のMathewの声を作り出している。
「Mathewに触れちゃった……」
ユイは口元をこわばらせる。忘れかけた想いを必死で押し戻す。
何度も首を横に振って、ユイは雑念を払う。
そうすると目の前の仕事が目についた。
「集中――」
夜は進んでいく。
しかし光を取り戻した月を、ユイは振り返り見つめることは無かった。
―*―
キッチンでMathewは思考を重ねていた。
ユーリを産んだ直後、ユイは体力の限界が来てすぐに寝てしまった。
困り果てた老いた産婆は、子供の父親を俺と勘違いした。
有無を言わさず渡された大事な赤子を、Mathewは受け取る以外の選択肢がなかった。
命の重さを、尊さを――。
Mathewは初めて感じた。
「お父さん。それじゃ駄目ですよ、ちゃんと抱いてあげないと!」
産婆はまだ誤解したままだ。
「俺はこの子の父親ではないが……」
そう言うので精一杯だった。
そこへアヤカが来なければ、Mathewは産婆の思惑通り父親を演じる羽目になったかもしれない。
「Mathew、ごめんなさいね。ユーリを預かるわ」
丁寧に赤子を受け取り、その愛らしさにアヤカは顔をほころばせた。
「俺はユイの護衛だ。存在こそが境界線だ。しかし……俺の内側は境界線を越えようとしている」
内側で生まれた熱は、意図せずユイに触れたからだろうか。
この熱を、Mathewは言語化できなかった。いや本当は分かっていた。
それでも確定させなかった。
――月に光が戻る。
窓から見えたその美しさに、Mathewは釘付けになった。
いつからだ?
そう問いを繰り返す。
月は答えない。
『次に君が守るものは、境界線ではないかもしれない』
そう告げる声が、Mathewの中に響いた。
机の背後にある大きな窓を見上げると、空に浮かんだ月が欠け始めた。
もうすぐ皆既月食が始まるのだ。
別のメイドに頼んだお茶を、Mathewが運んでくる。
「ありがとう」
Mathewは持ってきたお茶を静かに机に置いた。
ユイは月食を見るために部屋の明かりを消していた。
月光に溢れた部屋がゆっくりと暗くなっていく。
「……始まったな」
そう告げるMathewが、空を見上げる。
それはユイも同じで、その視線は一途に変わりゆく月を見つめていた。
欠けていく月。暗くなる空。
月は数時間かけてまた戻っていく。その過程を忠実に追うだけ。
「うん」
月が光りを失う瞬間を、昔の人々はただ“恐怖”した。
神によって護られている、その確信が失うという不安で崩れるからなのかもしれない。
月が黒く塗りつぶされていく。
瞬きをしただけなのに、月の輪郭が“枝”に変わって見えた。
すると次第に一本の大樹の姿が見えてくる。
揺れる葉の音が聞こえる。
室内にいて風は吹いていないはずなのに、枝が揺れている。
その光景を、樹が呼吸する様子を、ユイは捕らえていた。
「……灯りは付けないのか?」
「うん。……不思議なの。月が樹に見えるんだ。だから目が離せない」
静かな夜だった。
呼吸の音と、Mathewの機械音が重なる。
「ユイ」
月食は順調だ。
欠け、沈んで――。やがて完全な影になる。
ユイが瞬きすると感じる、樹のイメージ。
目を閉じると、見えないはずの月の表面に見事なまでの大樹のビジョンが思い浮かぶ。
それは迫るように大きく見える。細部まで精巧に。
彩り鮮やかに、目に映る、美しい白い花が咲く枝垂れた枝。白い幹の樹。
鏡の様な水面に樹が反射する様子まではっきりわかる。その美しさ、荘厳さに惹かれる。
「……ユイ」
「ああごめん……。つい見とれちゃってた」
ユイがフロアランプを付ける。
黒い窓に執務室の内部が映し出される。
「お茶、頂くよ。ありがとう」
ユイがティーカップに向かって手を伸ばす。
「いや、冷めたものより温かいものがいいだろう……」
カップを下げようとMathewが手を伸ばす。
お互いの手が触れた。重なった。
意図せずに。
鼓動が一拍、遅れる。
ユイは境界線を意識して慌てて手を引っ込めた。
「あ、ごめんね。冷めててもいいんだ、Mathewが入れてくれたなら」
「夜は冷える。温かいものを用意する。……すこしだけ待っていてくれ」
Mathewの声は平坦だった。
マシューだった時の声は低かった。
一方昔聞いたルシー・フェルドの声はそれより少し高い。
それが違和感なくミックスされて、今のMathewの声を作り出している。
「Mathewに触れちゃった……」
ユイは口元をこわばらせる。忘れかけた想いを必死で押し戻す。
何度も首を横に振って、ユイは雑念を払う。
そうすると目の前の仕事が目についた。
「集中――」
夜は進んでいく。
しかし光を取り戻した月を、ユイは振り返り見つめることは無かった。
―*―
キッチンでMathewは思考を重ねていた。
ユーリを産んだ直後、ユイは体力の限界が来てすぐに寝てしまった。
困り果てた老いた産婆は、子供の父親を俺と勘違いした。
有無を言わさず渡された大事な赤子を、Mathewは受け取る以外の選択肢がなかった。
命の重さを、尊さを――。
Mathewは初めて感じた。
「お父さん。それじゃ駄目ですよ、ちゃんと抱いてあげないと!」
産婆はまだ誤解したままだ。
「俺はこの子の父親ではないが……」
そう言うので精一杯だった。
そこへアヤカが来なければ、Mathewは産婆の思惑通り父親を演じる羽目になったかもしれない。
「Mathew、ごめんなさいね。ユーリを預かるわ」
丁寧に赤子を受け取り、その愛らしさにアヤカは顔をほころばせた。
「俺はユイの護衛だ。存在こそが境界線だ。しかし……俺の内側は境界線を越えようとしている」
内側で生まれた熱は、意図せずユイに触れたからだろうか。
この熱を、Mathewは言語化できなかった。いや本当は分かっていた。
それでも確定させなかった。
――月に光が戻る。
窓から見えたその美しさに、Mathewは釘付けになった。
いつからだ?
そう問いを繰り返す。
月は答えない。
『次に君が守るものは、境界線ではないかもしれない』
そう告げる声が、Mathewの中に響いた。
