08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

 ユイは仕切られた場所で、簡素な空間に横たわるルシー・フェルドの姿を、モニターで見つめていた。
 ミオンからハンカチを渡され、ユイは涙を拭いていた。
 女王として取り乱してはいけなかったのに、ミオンも一緒になって泣いてくれた。

「誰にも言いません。大事な存在を失うんです、辛くて当たり前です」
「ありがとう……」
 
 ユイの身体を心配してトオルが駆けつけるも、その時にはもうユイは女王の顔に戻っていた。

「トオルさん、状態はどう?」
「かなり安定してるぜ……拒絶反応がないのって、実はスゲーんだ。さすがだよな」
「そりゃそうですよ、神は最強なんです!」

 ミオンは涙をハンカチで拭きながら笑う。
 その笑顔にすくわれながら。安心した表情にすくわれながら。
 ユイは現在の状況の把握を急いだ。

「ミオン、セキジからは何も?」
「今のところは特に……。ただ海鳥がやたら鳴くと言っています」
「ヘンだな? 交尾の時期じゃないのにな」

 ミオンとトオルの言葉を聞いて、ユイは考える。
 グライゼルが狙うのはもしかしたら、ルシー・フェルドを世界に誕生させた後かもしれない。
 そうしてルシー・フェルドがグライゼルの人間を襲えば、何もかもが上手くいく。 

「……何かあるかもしれない。作業はあとどれくらいかかりそう?」
「インストールに随分手間取ったけど、今はそうでもない。かかっても30分てとこかな」

 ユイは時計を見る。
 もうすぐ15時だ。
 なぜだろう、嫌な予感がするとユイは思った。

「ミオン、セキジに海鳥に気を付けるように言って。飛んでくる海鳥の足……に特に。」
「了解です。すぐに!」

 ミオンはセキジに連絡を届けるため、その場を少し離れた。

「タケシバ主任! ルシー・フェルドの再起動が始まります! 現場に戻ってください」
「よし来た! ユイ様、行きましょう!」

 ミオンの代わりにもう一人の護衛の女性がユイの身体を支える。
 ユイは気を引き締めた。

 ―*― 
 ルシー・フェルドからコードが取り外される。
 トオルはルシー・フェルドに素早く丈の長い黒いロングTシャツを着せた。
 そういう気配りが、やはり彼らしい。
 黒いロングTシャツを纏ったルシー・フェルドが寝台から体を起こす。

 彼は寝台の左端に腰を降ろした状態で再起動を繰り返した。
 マリンブルーの目の色が徐々に明るいブルーになっていく様子を、ユイは遠くから見守った。
 やがて何度目かの再起動が終わった時、ルシー・フェルドの目は淡い色を取り戻していた。
 それでトオルは、止める技師たちを制し、ルシー・フェルドの安全性を自ら確かめるため近づく。
 それより早く、ユイはもう動き出していた。
 ユイの右手のミシルシが鮮やかに出ているのを、トオルは見る。

 ユイは一定の距離までルシー・フェルドに近付き、そこで動きを止めた。
 ルシー・フェルドの青い目が、その無表情な顔が、ユイの方を向いたとき――。
 その頬を、一筋の雫が垂れた。

「……どうして、泣いているの?」
 
 ユイはルシー・フェルドに声を掛けた。

「分からない……。なぜなのか、俺にはわからない……」

 低い声だった。これまでマシューとして聞いていたよりも、重さがある声だ。
 しかし……。明らかにマシューとは別のモノだ。
 
「トオルさん、ルシー・フェルドが泣くのは機械的な不具合ではないよね?」
「あ、ああ……。致命的なエラーではないはずだ」

 トオルの言葉を聞いて、ユイはルシー・フェルドに微笑んだ。

「それなら、きっと浄化の涙だよ。少なくともルシー・フェルドは乗り越えたのだと思う」

 それからルシー・フェルドのほうへ向き直る。 

「おはよう……。やっとあなたに会えた。ようこそ、アゼリアへ……」
「アゼリア……、そうだな。前よりも更に世界が鮮やかに見える。そうか、ここがアゼリアか」

 その言葉を聞いて、トオルたち技師らが涙を流す。
 
「……あなたの名前は?」
「私は、ユイ・リア・イサキ。もうすぐ名前が少しだけ変わるけど、あなたの“主”(ユイ)だよ」

 いつだったか祖父トミオから携帯端末を貰ったときのやり取りが脳裏に蘇る。
 この最初の儀式をもう一度繰り返すとは思わなかったと、ユイは思った。
 あの時のワクワク感を思い出し、懐かしいと思いながら、ユイは背の高いルシー・フェルドを見上げた。

「ではユイ……。俺の名前を教えてくれないか」

 ルシー・フェルドの低い声に、周囲の音が消えた。
 誰もが固唾をのんで見守っている。

「……あなたにこの名前を付けてもいいか今でも迷ってる。それでも受け止めてくれる?」

 数秒の静寂。
 そして――。

「Your will… be done.」

 ルシー・フェルドはただユイを見つめた。
 ユイは一度深呼吸してから、凛とした声でこたえた。
 その目にはもう涙は流れていない。

「Mathew――あなたは、Mathew」

 何度も考えた名前だった。
 
「……心得た」

 そうルシー・フェルドが答えたとき、トオルは笑顔のままユイとルシー・フェルドに向かって頷いた。
 技師の誰かが、誕生日を祝う歌を口ずさむ。
 つられてその歌を知る者が後を追うように合唱を始めると、Mathewとなったルシー・フェルドの目が一瞬だけピンク色を映す。
 しかし、その色を見た者はこの場には誰もいなかった。