08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

 目を開くと、過去の自分が居た部屋だった。
 リージョンN、H市の、カイドウ家の病院だ。
 病院の名前は覚えていない。ただ、祖母リエがずっと働いていた大きな病院だった。
 最初ユイが入った部屋はやたら白い部屋だった。
 あの日の悪夢を繰り返し夢見て、食事も喉を通らなくなった頃、別の部屋に移された。
 それがこの部屋だ。

 まるで深海の様な部屋。
 濃紺のカーテン、コポコポと音を立てる水槽。
 誰の趣味か分からないけど、タテゴトアザラシの大きなぬいぐるみが、デンとベットで寝ていた。
 誰が置いたのか、四葉のクローバーのイラストが壁に飾られていた。
 ユイはこの部屋が嫌いではなかった。
 水の音がゆっくり体に染み入る、落ち着く部屋だったから。
 気がつけば――目の前で少女がうつむき佇んでいる。
 首のとれた白いクマのぬいぐるみを抱え、声なくすすり泣いていた。

(これ……過去の私だ……) 
 
 ユイは泣いている12歳の自分に触れようとする。
 しかし、自分の手は透き通っていて、触れられない。

『泣かないで、大丈夫だから……』

 この言葉はかつての自分には届かない。
 そしてリエを呼んで泣く姿を見ていられなくなったとき――。
 ロレン医師がやって来た。
 彼が最初に見たのは、ユイの左手の甲だ。
 気が付いたら浮かび上がってきた奇妙な印を、当時のユイは怖がった。

「ユイちゃん……そのぬいぐるみを少しの間、預かっても良いかな?」
「どうして? マロンはもう......」
「僕の知っている人なら、キレイに直してくれるかもしれないんだ」
「……本当に?」

 そうしてユイはぬいぐるみをそっと手渡す。
 彼はアルバ・ジョイ・ロレン医師。有名な精神科医の先生だった。
 
 ロレン医師は12歳のユイの、左手の甲に突如として浮き上がったアザをみつめる。
 それは幾何学模様の印、とでもいえるものだ。
 そして顔を歪めて、涙をポタリと落とした。
 ロレン医師の様な大人がこんなふうに涙を流す姿を、ユイは見たことがなかった。
 だからこそ、きっと知らないうちに自分が傷つけてしまったのだろうと、子供のユイは自分を責めた。

「ごめんなさい」

 ロレン医師は首を横に振り、眼鏡を少し上にずらして涙を拭いた。

「君のせいじゃないんだ。……温かい飲み物を飲もうか。フィリア・オレンジの、ね」
「フィリア・オレンジ……」

 それが何かも昔のユイにはもう思い出せなかった。
 それでも嬉しそうな顔をして見せたのは、目線を落としたロレン医師の手が優しかったからだ。
 少しだけ過去のユイの目が光りを灯す。
 この先生なら、きっと大丈夫……そう信じることができた。
 
 大人になったユイは左手の甲を見つめる。
 あの不気味な印は今はない。
 今となってはあれが何だったのかさえ分からなかった。