08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

 扉からユイが出てきたとき、マシューは涙を流すユイの顔を見上げた。
 トオルもユイも何も言わない。
 何があったかはおおよそ見当がつくが、マシューはそれを主に問うことはなかった。
 それよりもユイに告げなくてはならないことがあった。

「ユイ」
「……ごめん、今は……」

 と言いかけて、ユイは思い直す。
 
「このタイミングでマシューが声を掛けるってことは理由があるんだよね?」
「ああ……トオルも一緒に聞いてくれ。まずは車内に戻ろう」 

 マシューは、人にそうあることを望まれて造られた”機械”。
 人にとっては残酷な報告も、感情を欠いた声で躊躇なく行うことも出来る。
 ただマシューには“主”(ユイ)と共有した多くの時間があった。
 しかしこの時のマシューは、それを敢えて顧みなかった。

 ユイの姿を確認すると、セキジは車から出てユイを出迎える。
 庭で遊んでいた子供たちの姿はもう見えない。
 トオルとマシューが最後に孤児院の建物全体を見上げる。
 その時トオルは庭の隅にある小屋を見つめる。
 大型犬が数頭収容できそうな、犬小屋だ。

「何か動物でも飼ってんのかな?」

 トオルはマシューに問いかける。

「さあな」  

 ユイたちがシートに収まったタイミングで、セキジは車を出していいか確認を取る。
 ユイはセキジに数分の待機を伝え、マシューを見た。
 それを確認したセキジの視線がバックミラー越しにマシューの視線と交差する。

 マシューは語り始めた。

「この孤児院には、地下に一定の広さの空間がある」
「それって地下室があるってこと? そんなの別に珍しいことじゃ……」

 マシューの言葉にユイが、ハッとする。
 ユイは嫌な予感がした。
 例えば地下に何かが潜んでいたとして、どうして知る必要があるのか。
 マシューは続けた。

「その地下空間に、複数の生体反応が見られた。犬小屋の内部に、不審物が設置されていた。あえて解除が可能な状態でだが」

 トオルの声が震える。

「あの小屋……。マジかよ……」し
「孤児院の内部は、ごく最近改装された跡がある。特に壁には消臭性の高い染料が使われていた。隠すにしてはお粗末だがーー偶然、ですませるにはできすぎている」

 そこまで聞いていたセキジから笑顔が消えた。
 目は鋭く、視線には冷ややかな怒りが見て取れた。

「――ユイ様、これは我々の手に余ります。急ぎ離れましょう」
「はい……それしかない、よね」

 誘われている。動いてみせろと。
 挑発されている。犬らしくお預けでもしていろと。
 悔しいが現状の最善は、何もしない、だ。

 ―*―
 その帰りの道中、ユイは虚ろな目でただ暗い空を見上げ続けるだけだった。
 マシューはそんなユイのバイタルを注意深く確認したが、異常は見られない。

 助手席のトオルと運転席のセキジが、雑談をしていた。
 
「リージョンKの主要都市には昔、高消臭性染料の工場がありましてね」
「ああ、魚の生臭さを消すんだろ? リージョンKは漁獲量が多いって聞いたことがある」

 トオルが顎に手を当て何かを考え込むようにして、セキジに応える。

「その高消臭性染料は、一部の人間だけ髪が銀色に変化する副作用が現れるそうです」
「他に人体への影響は?」

 セキジはトオルのその問いに、進行方向から目を背けずに答える。

「何も。そもそも、“消臭”ですし」

 マシューは最後にあの孤児院のデータベースに干渉した。
 あの孤児院に、ある人物から多額の寄付金が寄せられていた。
 その寄付金の額は、一介の公務員の年収額を遥かに上回る額だった。

 マシューはこの事実だけはユイには伝えなかった。
 繊細な心を持つ“主”(ユイ)がこれ以上の現実を受け止めきれないとわかっていたから。

 気を紛らわす為にユイがある流行歌を口ずさむ。
 原曲よりもキーが高い、美しいソプラノが車内に響く。
 それがラブソングで、デュエットであることにトオルだけが気づいた。