08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

 ユイとトオルは孤児院の図書室を訪れた。
 木製の取っ手が付いた木の扉を右に引き、中へ入る。
 こじんまりとした空間だ。勤務先の教育機関にある図書室の1/3ぐらいの広さだろうか。
 
 ユイは大きな窓から差し込む穏やかな陽光に誘われ、図書室の内部を歩く。
 窓口では背中を丸めた老いた女性が、本を返却する子供から本についての感想を聞いていた。
 女性と目が合うと、彼女は穏やかな視線でユイを迎える。

 耐震を意識した頑丈な造りの木製の本棚。
 それは6つぐらいあり、窓口を中心に放射状に配置されている。
 絵本や児童文学が整頓されて並ぶが、息苦しい程の蔵書量ではない。
 子供が安心して本に触れ合えるほどの余裕が感じられる。
 
 情報化されていない”紙”という旧式の記録媒体――“本”は恐らく寄付によるものだろう。
 そしてその“本”をよく知る者が、子供たちのために丁寧に管理しているといった印象を受けた。
 
 ユイは目についた本の数冊を手に取る。
 どの本も大切に扱われ、破けた所は丁寧に修繕されているようだ。
 ヒロトがここで過ごしたというのなら、ヒロトはどんな本を読んでいたのだろう?

 ふとユイが目を止めたのが、本棚の上に収納された紫色の装丁をした本。
 その紫色がヒロトの目の色に似ていると思って、ユイはその本を手に取る。
 しかしユイの指先が滑り、軽い音を立て本は閉じたまま床に落ちた。

 マシューがそれをくわえ、ユイに手渡す。

『アゼリア物語』

 アゼリアとは、大昔の人々の言葉で『永遠』を意味するという。
 そんな名前をどうして世界につけてしまったのかは分からない。
 人類の繁栄を永遠に望んだのか、何か叶えたいことが永遠であることを願ったのか。

 すると図書室のなかを同じように見て回っていたトオルが、ユイに声を掛けた。

「オレも子供の頃……読んだな、それ」
「そうなんだ? 面白い?」
「ん~、正直よくわからんかった」
「じゃあ、今は?」
「少しだけカザム教を知ろうと思ってる」 

 ユイはどうしてとは聞けなかった。
 レイラの家は受容派ではない。敬虔なカザム教の信徒だ。

「レイラが信じていることを、何も知らないまま否定したくないんだ」

 トオルの言葉が、ヒロトの言葉と重なる。
 あれはマシューがまだ定期メンテナンスから戻る前のことだ。

 合唱団の練習の帰り、送ってくれたヒロトと一緒にユイの部屋で料理をした。
 ヒロトは味わい深い煮物料理が得意だった。
 祖母リエが作っていたような、素朴で温かみのある“母の味”がする料理。
  
 食材を一定の速度を保ったまま等間隔で刻んだり、火加減の調整や温度管理。
 それは料理を頻繁にする人の手際の良さだった。
 ユイにとっては、異性と行う初めての共同作業。なのにヒロトは既に経験済みらしい。
 それがユイには少しだけ悔しくて、少しだけ寂しくて――

『ここまで料理上手になった秘訣って、誰かに作ってあげたかった?』

 そんな風にヒロトに聞いてしまった。

『そうだとも、そうじゃないとも、言えない。……ただ今はユイのために作りたい』
『私のために?』
『うん。ユイのためだけに』

 ヒロトは少しだけ照れくさそうに笑う。ユイも一緒に顔を赤らめる。
 そしてヒロトは――。
 
 マシューが動物型で良かったと、呟いた。

『ユイの胃袋を掴む名誉だけは俺のものにしたいから』
『なんでマシューが私の胃袋を掴むことが確定してるのか、謎すぎる』

 口を尖らせてユイは反論する。
 そのユイの肩をヒロトは後ろからそっと抱きしめる。
 
『ユイが信じていることをすぐに理解できなくても、否定だけはしたくないんだ』

 あの時のヒロトの言葉の意味を。
 当時のユイはマシューに対する対抗心だと思っていた。
 けれども本当はもっと深い意味があったのかもしれない。

 ―*―
 訪れる子供は限られているのか、本を返却する子供は来ても図書室で本を読む子はいない。 
 時折窓口の女性と子供の会話が聞こえる。
 あとはページをめくる小さな音だけの、静寂の空間。

 トオルもユイも本を読んでいた。
 ユイは図書室の椅子に座り『アゼリア物語』を読み始める。
 するとマシューは窓辺にある椅子の上に待機姿勢を取り、空を見上げ始めた。

 カザム教における唯一の“神”が、ある時この世界――、アゼリアに降り立った。
 そしてこの“神”は世界を創り、今なお世界を導き、守護しているのだそうだ。
 
 ここまでを読んで、ユイは『アゼリア物語』を閉じた。
 
 いつの頃からかカイドウ家は、カザム教の受容派になった。
 それはカザム教の理念や概念を否定せず受け入れるが、守護者を唯一の絶対神として崇めない。
 医療を司る一族が、宗教に固執することは危険であるとの見方からきている。

 祖父トミオもそうした価値観を持っていた。
 もしもこの世に“神”という存在がいるのなら――。
 “神”は複数いていい。信じたい“神”も“教義”も、個人が選ぶべきだと思う。

 カザム教の“神”が美化されたこの本を、ユイは元あった本棚に戻す。
 何かの行動が一区切りつくと、ユイはマシューの姿を探す。

(……そばにいるのに探すなんて、ね)

 ユイは苦笑する。
 当のマシューは、あれからずっと空を眺めたままだ。
 恐らくユイがマシューを呼ぶまで、マシューはずっとこのままなんだろう。

(何を見上げているの……?)

 マシューが動物AIドールの中に移行して直ぐの時、仕事の帰り道で話したことを思い出す。
 あの時マシューの言葉をユイは思い返す。

『俺は変化するものを必要としない。だが変化自体に興味がないわけではない』

 あの時は詳しく聞こうとしたらはぐらかされた。
 恐らく今でも教えてくれはしないだろう。

(人間とAIには境界線が必要なのはわかる。そんな目に見えないモノをどうやって扱うの?)

「ユイさん、そろそろ行ってみない?」 
「うん」

 ユイはマシューを連れてトオルと共に会議室へと向かう。
 そのドアの前でユイは急に足を止める。

「どうした? 入らないのか?」

 ユイを見上げ、マシューが声を掛ける。
 しかしユイはマシューを見ずにこたえた。
 
「マシュー、ごめん。ドアの前で待っててくれる?」
「ああ」 

 ドアを開ける。
 背を向けるユイを、マシューは静かに見送った。