08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

 音楽フェスが幕を開ける。
 舞台袖からチラリとみた観客席は、信じられない光景が広がっていた。
 この音楽団とは何度も共演してきたと言うのに、座席が人で溢れるのを初めて見た。
 
「すごいな、全席完売したそうだ」
「なるほどな……キャンセル待ちもあったとか」 

 そんなメンバーの会話を耳にしながら、ヒロトは気を引き締めた。
 出番を終えたソプラノのソリストの女性が濃紺のロングドレスの裾を揺らしながら歩いて来る。

「リーシェン君」
「はい」

 彼女、レミ・イナ・ロレンは、合唱団ではかなり古株だ。
 職業は公務員と聞いているが、人生を歌に捧げる、いわばセミプロだ。
 いろいろと面倒を見て貰っているが、ヒロトはこの女性が少し苦手だった。 

「表情が硬いわよ。……緊張してる?」
「はい。さすがにあの観客数は予想していなかったので」
「……私も。気をしっかりもたないと声が出なかったかもしれない」 

(まあそうだろう。あれだけの人数の視線を集めるわけだし) 

「レミさんが?」
「ええ。足が震えたのは久しぶりだわ」

(信じられない……これは覚悟してかからないと失敗するな)

「そろそろ出番ね、行ってらっしゃい」
「はい!」
 
 ヒロトは濃紺のドレスの女性に手を振り、舞台へと進んだ。
 とそこで、既視感を感じた。
 
 心の中を見透かしてくるような”視線”。
 この2000もの観客のなかで、確かに感じる。

 一度目は成人式で。
 二度目は職場で。
 
(って、それどころじゃないだろ。集中だ……) 

 楽団の音楽が流れる。
 歌詞は全部頭に入っている。
 
『君の歌は、ただ歌詞を辿っているだけだ。深みが無い』
『偽の感情で歌ったところで、本当の感動にたどり着けるとでも?』
 
 過去、他人に言われた言葉が脳裏をよぎる。
 
(集中――)

 ヒロトの目がある座席の方角を向いた時だった。
 先ほどの視線を感じた。同時にモルモットを観察するかのような鋭い視線も。
 
(ユイ・リア・イサキ……)

 仕事で偶然知ってしまったその名前。
 座席の位置でヒロトは理解する。
 最も特別な席に座る彼女がまっすぐ、ヒロトだけを見つめていた。

 ヒロトとユイの目が合う。
 逸らしてもまた、……合う。

 ヒロトが紡ぐ歌詞は、想い焦がれるヒロインに愛を伝えるものだった。
 純粋で真っ直ぐな一途な愛の言葉を、彼は歌う。

(利用するようで申し訳ないが……。それで高みへ行けるのなら)

 ヒロトの声が、更に情熱を帯びて空間に響き渡る。
 彼の目はユイを見ているわけではない。
 それでも彼の魂はユイだけをまっすぐに見つめていた。

 ー※ー
 聴衆の拍手喝采、仲間からの賞賛。
 アンコールの熱気……。

 ヒロトにとってどれも重要ではなかった。
 
(今を逃せばまた遠い存在になってしまう) 

 団長の説明もレミの指示も、ヒロトのなかを素通りする。
 ただ熱に浮かされたように、衝動的にただ一人の姿を求めていた。
 
「ねえリーシェン君、団長の話、ちゃんと聞いてた?」
「すみません。ちょっと席を外します。あと打ち上げは辞退します」

「緊張がほぐれて急用でも思い出したか?」

 団長が苦笑しながら問うのを、ヒロトは悪魔のように整った微笑みで返す。
 
「……いえ、僕の運命に遅刻しそうなんで」
「はぁ?」

 呆気に捕らわれるレミや団長、仲間たちの視線を背中に受けて、ヒロトはその場を離れる。
 次第に歩調は早くなり、帰っていく観客を見てからは、もう駆け出していた。
 
(……どこだ?)

 彼女は護衛を兼ねた動物型AIドールを利用している。
 ということは恐らく群衆の中に混じらない。
 AIドールが安全なルートを指示、あるいは提案するだろう。

(なぜ探している? 居なくて当たり前なのに)

 ユイと似た背格好の女性を見かける。
 女性なんてどれも同じだと思っていたのに、明らかにユイは違う。
 見つめても見つめられても、彼女以外の対象ではこれほどの熱量は湧き起こらない。
 しかしすでに観客は数えるほどしかなく、状況は絶望的に見えた。

「遅刻……、したかもな」

(でもあの視線を間近で向けられたら、俺はどうなる? ……関わるべきじゃない)

 その時、ヒロトの腕時計が小さな音を立てた。

「誰から……?」

 腕時計は、携帯端末と連動している。
 開演前には余計な通知が入らないよう、電源を切っておいたはずなのに。
 それなのに通知が来る。ヒロトは訝しげに通知を開く。
 今時珍しい文字通信で、しかも相手は非通知設定になっている。

「南東のロビー?」

 確かにまだ確認していなかったと、ヒロトは駆け出す。
 
(俺の運命か……)

 そうして三人掛けの椅子に、間を開けて座る男女の姿を見る。
 男女ともヒロトにとっては知った顔だった。特に男のほうは。

(彼と来ていたのか? いや、渡したチケットの席番が違う)

 楽しそうに笑うユイの様子を、そんな光景を目の当たりにしてどうして落ち着かないのだろう。
 かといって声を掛けていいのかもわからなかった。