08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

 この世界には4つの大きなリージョンがある。
 リージョンRは、北に位置する古くから栄えた大きなリージョンだ。
 ユイが住むリージョンCからは、陸・海・空どの交通手段も利用可能だ。

 マシューは、ユイにリージョンCの大きな運河からリージョンRを目指すことを提案する。
 意外なことにルートが最速なのだそうだ。

 マシューに頼んで水上タクシーの手配をして貰っている間、ユイは音楽フェスの問い合わせ窓口にアクセスし、チケット(座席)のグレードをアップさせた。

 音楽バンド的なものを想像していたら、「合唱・管弦楽など」のフェスだったようだ。

(なるほどね。彼女が行きたがらない理由が何となくわかるかも)

 行動のきっかけは押し付けられたチケット。
 だけど流されたまま用意された席に収まるのは何かが違う。
 自分が座る席は自分で選んだ物にしたい。
 そんなささやかな決断にマシューも賛同する。

 黒い総レースのロングワンピースに着替え、マシューと共に水上タクシー乗り場へと向かった。
 小さな星が輝く夜。大きな運河を北上するのは気持ちが良い。
 周りを見る。
 動物型AIドールを連れている人も何人かいた。
 彼らは水がかからないようドール専用のコートをAIドールに着せていた。
 ユイはマシューにもそうしたコートを用意すべきだったと後悔するも、当の本人は。

「IPX8相当の防水性能だ」

 と、なぜか誇らしい。
 何でも、水深3メートルで30分は耐えられるのだとか。
 それなら今度プールにでも誘おうか。

(お爺ちゃんたら、どうしてそんなオプションつけたんだろう……)

 護衛AIドールだから、必要と思ったんだろうか。
 
(もしかして耐性オプション全部付けたとか……。いや、流石にそれはないか)

 そうして優美な曲線を描いた街灯が両岸に見え始めた頃。
 幻想的な光に包まれたリージョンRの中心地の街並みが姿を現した。
 リージョンRは”音楽の都”と呼ばれている。
 音楽フェスは、美術的価値が高いと有名なコンサートホールで行われるのだ。

 伝統的な石畳の道が何処までも長く続いている。
 水上タクシーが目的地に着くと、マシューは開催場所までの最短ルートを案内する。

「本当にこの道で大丈夫なの?」
「当然だ。開演には間に合う道を選んでいる」

 マシューに連れられ、地元の人間にしかわからないような迷宮路を歩く。
 いつもの歩調で歩いたにもかかわらず、会場にはマシューの言う通り開演前に到着した。

「こんな謎のルートを着き進んでこの時間に着くなんて、流石マシュー……」
「うむ。護衛とは危険から主を護るだけではない。危険から遠ざけるのも護衛――」
「はぁ……ステキ! ちょっとドキドキしてきたかも」

 目の前には、風の流れを彷彿とさせる優美な曲線を描く壁。
 繊細な光を湛える巨大なガラス面。建築物それ自体が、静かに鼓動する芸術品のようだった。
 そんな空間に引き寄せられるように、ユイはフラフラと入口へ進む。

「……そこは関係者用だ。ついてこい」
「はぁい」

 各式の高さを醸し出す、上品な雰囲気のコンサートホール。
 ドレスコードがあるのではないかと思ったら、カジュアルファッションの観客も居るようだ。
 黒のワンピースにしてよかったと思いながら、ユイは席を探す。

 黒の執事服を着た老紳士がコンシェルジュのようだ。
 チケットを見せると、すぐに新しい座席のチケットと交換してくれた。
 奮発した最高グレードだ。

「ええと……「C」の「04」って、あ。ここか」

 目の前に広がる扇状のステージ。
 左側には白いグランドピアノが置かれている。
 
(……あの時と、全然違う)

 周囲を見回すユイ。
 祖母のリエとRARUTOのライブに行ったときのことが脳裏に浮かぶ。

 手を伸ばせば届きそうな距離感に心が高鳴る。
 きっかけは押し付けられた物だったのに、こんなに世界が変わるなんて。
 
 音楽団や合唱団が目の前で音楽を奏で、観客に礼を尽くして去っていく。
 あっという間にラストプログラムに移行し、トリを飾る団体がステージに上がる。
 オーケストラと合唱団の共演らしい。
 曲はこの世界で過去に発表された文学作品の、主題歌を演奏するようだ。

 ユイの足元に丸くなって待機していたマシューが、ステージのほうを見上げるように座り込んだ。
 その時、圧倒的なステージの光を浴びて歌う男性が現れた。

(こんなことって……) 
 
 彼はもう眼鏡をかけていなかった。
 銀色の髪を整え、漆黒のスーツを身に纏って、舞台の上でただ輝いていた。

 テナーのソリストとして。

 他の演奏者とまるで違う、強い熱情がそのまま服装に現れているようだ。
 豪華な金糸の刺繍が入った深紅のベストは、まるで王族の正装にもみえた。
 同時にどこか型破りで情熱的な、彼だけのアレンジが施されているような気がした。

(ヒロト・セナ・リーシェン……)

 彼の名前がユイの心の中に響く。
 情熱的で張りのある高めの声と、圧倒的な存在感。

 そんな人が手を伸ばせば届く距離にいる。
 ただ”彼”を知ってみたいと想う。

 美しいソプラノもオーケストラの音楽も耳をただ素通りするのに、
 ヒロトの歌声だけがユイの中で甘く響いた。