08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

 ユイが勤務するのは、リージョンCにある大きな教育機関だ。
 この世界では、高度な教育を義務としていない。
 生きていくための教育は無料で誰でも受けることが出来るが、それは”知識の種”だ。
 この種をどう育てるかは個人の自由であり、個人が望むことで初めて高度な教育への道は拓ける。

 ユイはこの教育機関の事務局で、学生のサポートをしている。
 業務時間は、AIドールは長期待機というカタチでスリープ状態になる。
 マシューは、ユイの携帯端末からの指示を受け、必要に応じて本体を動かすのだ。
 その日ユイが出勤すると、大量の仕事がユイを待っていた。
 
「これ全部……!? 今日中に終わる……かな?」
「あ~、今朝イサキさんが来たら頼みたいって、主任が言ってたやつですぅ」
 
 隣の同僚が悪魔の様な笑顔で伝える。

「……これだけの量があるってことは元々はもっとあったの?」
「ん~、実は昨日私の所にきた案件なんですよぉ。でも時間だったんで!」
 
 そうだった。彼女はどんなに忙しくても”定時帰り”を美徳とするタイプだ。
 少し舌を出して照れながら頭に手を当てている。
 可愛らしくしたところで、仕事を押しつけたという事実に変わりはない。
 ユイはため息をついた。
 
「……手伝ってくれるよね?」 
「もちろんですよぉ! 今日の分は頑張りますぅ!」

 と、笑顔のサムズアップ。
 ユイはそれ以上何かを伝える気が失せてしまった。
 チラリと目をやると、小さく頷くマシュー。
 なんか了解された。

 ユイは、仕事の処理に向き合う。
 溜め息をつきながらもその目は澱んではいなかった。
 むしろその逆で、キラキラと輝きを放つ。
  
 マシューはそんなユイの様子をしばらく見つめていたが、ほどなくして待機姿勢に入った。

 ー※ー
 ユイが仕事を片付けて帰る頃には、日が暮れていた。
 時計が17時を示すと、職員は一斉に帰り始める。
 ユイは一人残って、後片付けを行っていた時だった。

 通常ならば真っ先に居なくなるはずの同僚が、ユイを探して戻ってきた。

「イサキさん! いたぁ! 突然ですけど、コレ行きません?」

 ヒラヒラと手の中で踊っているのは、音楽フェスのチケットだ。 
 見ればそれは指定席。

「席も決まってるってことは、誰かと行く予定だったんじゃ……」
「そのつもりだったんですけどぉ、なんやかんやでキャンセルになったんで!」
 
(つまり要らないけど、捨てるのはちょっとって奴か……)

「そのフェス今夜開催なんでぇ、楽しんできてください~!」 
 
 彼女は用は済んだとばかりに、ユイにチケットを押し付けて去っていく。
 
「行くなんて一言もいってないのに……また流された気がする」

(なんでいつもこうなんだろう。要らないってハッキリ言えばいいのに、言えない)

 チケットを見れば場所はリージョンRだ。 間に合うかどうかもわからない。

「門を閉めますが、まだ残られますか?」
「あ……。あと10分のうちには!」
 
 警備員がユイに声を掛ける。
 静まりゆく建物にユイとマシューの足音が響く。
 
 空を見上げればもう夜が近づいてきている。
 その赤と黒のコントラストを、マシューはじっと見つめた。

「マシューは空を見上げるのが好きだね」
「ユイもよく眺めていると思うが?」

 ユイの歩調に合わせてマシューも歩調を変える。
 もともとユイの歩調は早めで、ダラダラ歩くことはしない。
 ただ心に迷いがある時、ゆっくりになることだってあるだろう。

「うん、もう癖になってる。空を見上げたからって何かが起こるわけじゃないけど……ね」
「……そうか。ユイは変化に惹かれるんだな。それならもっと今を楽しむべきじゃないか?」

 マシューはユイを見ず、正面だけを向いている。
 信号で止まると、ユイは渡されたチケットをポケットから取り出し、視線を落とした。

(音楽フェス……かぁ)

「今を楽しむ……たとえば一方的に押し付けられたイベントとか?」

 マシューはユイを見上げ、ユイはマシューを見下ろす。
 黒いカメラアイが一瞬澄んだ紫色に見えた気がした。
 
「そうだ。彼女には敢えてユイに渡す意味があったんだろう」

 信号が変わる。
 ユイとマシューはまた歩く。数メートル先にもうマンションが見えてきた。

「……そんな気遣いできるひとじゃないと思うけど」
「俺は変化するものを必要としない。だが変化自体に興味がないわけではない」
「つまり?」
「俺の性能を実感するにはいい機会ってことだ。まぁ決めるのはユイだが」

 マンションのエントランスに入ると、マシューは体をブルブルと震わせた。
 犬の様な仕草。そんな何気ない振る舞いにも意味があるのだろうか。
 
「……それ、ずるい」

 ユイが頬を膨らませて呟く。
 同時にマシューがいれば”怖くない”と、ユイは心から思った。