周囲から完全に水が消えた。
背後から歩いてくる音がする。足音に混じって聞こえる静かな機械音。
距離を詰めてくるのが誰なのか、ユイは振り向かずともわかった。
Mathew。
いや、違う。
Mathewの身体を依り代にした、世界の守護者・シュゼルトだ。
ここは世界樹の核。シュゼルトの領域。
そんなシュゼルトと同格たり得るのはユイだけだ。
そしてヒロトが自身の目的に使えなくなったと知った今。
残された駒はMathewしかいない、ということか。
Mathewの美しい水色の目が、ヒロトの目のような紫色に変わっている。
それでもユイは歌を止めない。いや、止められない。
「それが君の結論か。……理解できないな」
目に続き声すらも、もうMathewのものではなかった。
魅惑的なあの、ラウルの声だ。
「なぜ私に逆らう? すべてを委ねて良いのだぞ?」
甘く誘うように語りかけてくる。
それは“贋物”。
意図的に使われているだけの音声に過ぎないことを、ユイは理解していた。
澄んだユイのソプラノは、静寂な空間を切り裂くようにサビの歌詞を追う。
その旋律の向こうで、“ヒロト”は、歌うユイを見つめていた。
ヒロトが穏やかに微笑むと、その姿が少しずつ光の粒子として末端から崩れ始めた。
それはシュゼルトの支配からの解放。
もう歌は必要ないと、ヒロトの紫色の目が告げていた。
ユイは、煌めきながらほどけていくその光を、最後まで見届けた。
今までいろんな人を看取って来た。
両目から涙が溢れる。
(それでもまた、どこかできっと会える)
そう心でユイは祈るようにヒロトに誓った。
『……ありがとう』
ヒロトの声が聞こえた気がした。
優しさに溢れた、澄んだ声だ。
それこそがヒロトの本質だった、とユイは思う。
(あなたは本当に“太陽”のような人だった。あなたに会えて幸せだった……)
ヒロトの光の欠片がほの暗い空間に散っていく。
涙が止まらない。
境界線の向こうに現れた姿がある。
ヒロトの代わりに現れたその姿を見て、ユイは息をのんだ。
「……これが本当の守護者・シュゼルト……?」
目の前の存在は、宙に浮かぶ真珠色のクラゲに似た何かだった。
ユイに向かって、ゆっくりと長い触手を伸ばしてくる。
境界線の内側から、軋むような音が響いた。
ソレは境界線を越え、ユイを丸ごと呑み込もうとしていた。
『サア ワタシ ヲ エラベ』
その声はまだ、ラウルの声だった。縋り付くほどの執念を感じる。
ユイが愛したものを取り込んでまで、ひたすらユイを待ち続けた存在。
(そうまでして私を望んでいたの? 私と一緒に終わる瞬間のためだけに?)
私が失う運命だったように、シュゼルトは導く運命だった。
いや、そうしなければならなかったのかもしれない。
どうしてシュゼルトがレイハではなくユイを選んだのか。
似ているのだ、魂が。そう、二人で一つだというように。
「私は、あなたやあなたが造った世界を選ばない。でもあなたを拒絶することは出来ない……」
世界を変えるために犠牲となるのは、自分だけでいいとユイは思った。
女王の因子をアゼリア全土に注げば、球骨腫はもう発生しない。
ユイがヒビ割れた境界線越しに、その触手へ手を伸ばした、その時だった。
空間は完全な静寂の中に飲み込まれた。
シュゼルトの触手も。
水はないのに気配だけは消えていなかったそれも。
境界線の内側にいるシュゼルトすらも、その場に凍りついたように動きを止めた。
――8秒間。
『世界の時間が止められた』
ユイの意識より先に、ユイを支える“女王”としてのレイハの記憶が悟る。
“誰か”が、新たな守護者として、この8秒間だけ世界を静止させているのだと。
ユイは振り返った。
そこにいるはずの姿を、探す。
Mathewの目は、あの澄んだ色を取り戻していた。
伸ばした右手から、僅かな電波が漏れ出ている。
無のまま凍っていたはずのその表情に、確かな揺らぎがあった。
Mathewの視線が、ユイの視線と重なった。今度はお互い同時に。
ユイは思わずその名を呼んだ。
「……マシュー!」
その名を呼んだ瞬間、記憶がよみがえる。
初めてユイが“マシュー”に背後から抱きついた、あの日。
不意打ちを受けた彼は、困ったように不器用に揺らいだ。
そしていま。返って来たのは驚愕、そして穏やかで温かい視線。
その時はまだ微笑みを知らなかった彼が、
『オートバランサーは良好だ』
と、照れながらも即座に返してくれたことがあった。
そして、マシューと一緒に月を眺めたあの夜。
ずっと彼はひとりで月を見ていた。
一途に、まっすぐに、目をそらさずに。
そんな月を見ても微笑まなかった“彼”が、いま、微笑む。すべてを乗せて。
ユイはMathewに向かって、音にせず言葉を紡いだ。
Mathew――いや、マシューは、またユイに向かって不器用に微笑み返す。
それと同時に、マシューの宣言が空間に響く。
――Resolve。
その膨大すぎる熱量にその名が与えられ、すべてが“確定”した瞬間。
世界は光の中へ溶けていった。
それは漆黒の中で輝く、皆既日食のダイヤモンドリングの光に似ていた。
いつだったかマシューと一緒に検索した、あの画像のように。
ユイはマシューが見せてくれた光景を思い出しながら、マシューが差し出す“四葉のクローバー”を受け取り、静かに目を閉じた。
―*―
リージョンKの領海で魚を獲っていた漁師は、当時を振り返って語る。
「それは蛇のようでもあり、線のようでもあった。天に向かって昇っていく、互いに交差し絡み合う2本の糸の様な銀色の光のようだった」と。
時を同じくして、リージョンKの沿岸で若い女性が発見された。
アハド家によって保護された女性は身元調査の結果、行方不明とされた「ユイ・リア・カイドウ」その人であることが判明する。迎えにやって来たミカゲ・カイ・マガミと感動の再会を果たしたというニュースは、瞬く間に世界へ広がった。
それから8年の歳月が流れた。
ユイは息を引き取るその瞬間まで、“女王”として、世界のために献身し続けた。
さらにユイの亡き後。
成人を迎えたユーリ・カイ・リア・カイドウが、母の遺志を継ぎ新たな世界を構築した。
その礎を作ったユイを、人々は偉大なる聖女として、後世にわたり讃えたのだった。
この愛は巡る。
次はあなたのもとに、誰かからの“四葉のクローバー”が届くかもしれない。
END
背後から歩いてくる音がする。足音に混じって聞こえる静かな機械音。
距離を詰めてくるのが誰なのか、ユイは振り向かずともわかった。
Mathew。
いや、違う。
Mathewの身体を依り代にした、世界の守護者・シュゼルトだ。
ここは世界樹の核。シュゼルトの領域。
そんなシュゼルトと同格たり得るのはユイだけだ。
そしてヒロトが自身の目的に使えなくなったと知った今。
残された駒はMathewしかいない、ということか。
Mathewの美しい水色の目が、ヒロトの目のような紫色に変わっている。
それでもユイは歌を止めない。いや、止められない。
「それが君の結論か。……理解できないな」
目に続き声すらも、もうMathewのものではなかった。
魅惑的なあの、ラウルの声だ。
「なぜ私に逆らう? すべてを委ねて良いのだぞ?」
甘く誘うように語りかけてくる。
それは“贋物”。
意図的に使われているだけの音声に過ぎないことを、ユイは理解していた。
澄んだユイのソプラノは、静寂な空間を切り裂くようにサビの歌詞を追う。
その旋律の向こうで、“ヒロト”は、歌うユイを見つめていた。
ヒロトが穏やかに微笑むと、その姿が少しずつ光の粒子として末端から崩れ始めた。
それはシュゼルトの支配からの解放。
もう歌は必要ないと、ヒロトの紫色の目が告げていた。
ユイは、煌めきながらほどけていくその光を、最後まで見届けた。
今までいろんな人を看取って来た。
両目から涙が溢れる。
(それでもまた、どこかできっと会える)
そう心でユイは祈るようにヒロトに誓った。
『……ありがとう』
ヒロトの声が聞こえた気がした。
優しさに溢れた、澄んだ声だ。
それこそがヒロトの本質だった、とユイは思う。
(あなたは本当に“太陽”のような人だった。あなたに会えて幸せだった……)
ヒロトの光の欠片がほの暗い空間に散っていく。
涙が止まらない。
境界線の向こうに現れた姿がある。
ヒロトの代わりに現れたその姿を見て、ユイは息をのんだ。
「……これが本当の守護者・シュゼルト……?」
目の前の存在は、宙に浮かぶ真珠色のクラゲに似た何かだった。
ユイに向かって、ゆっくりと長い触手を伸ばしてくる。
境界線の内側から、軋むような音が響いた。
ソレは境界線を越え、ユイを丸ごと呑み込もうとしていた。
『サア ワタシ ヲ エラベ』
その声はまだ、ラウルの声だった。縋り付くほどの執念を感じる。
ユイが愛したものを取り込んでまで、ひたすらユイを待ち続けた存在。
(そうまでして私を望んでいたの? 私と一緒に終わる瞬間のためだけに?)
私が失う運命だったように、シュゼルトは導く運命だった。
いや、そうしなければならなかったのかもしれない。
どうしてシュゼルトがレイハではなくユイを選んだのか。
似ているのだ、魂が。そう、二人で一つだというように。
「私は、あなたやあなたが造った世界を選ばない。でもあなたを拒絶することは出来ない……」
世界を変えるために犠牲となるのは、自分だけでいいとユイは思った。
女王の因子をアゼリア全土に注げば、球骨腫はもう発生しない。
ユイがヒビ割れた境界線越しに、その触手へ手を伸ばした、その時だった。
空間は完全な静寂の中に飲み込まれた。
シュゼルトの触手も。
水はないのに気配だけは消えていなかったそれも。
境界線の内側にいるシュゼルトすらも、その場に凍りついたように動きを止めた。
――8秒間。
『世界の時間が止められた』
ユイの意識より先に、ユイを支える“女王”としてのレイハの記憶が悟る。
“誰か”が、新たな守護者として、この8秒間だけ世界を静止させているのだと。
ユイは振り返った。
そこにいるはずの姿を、探す。
Mathewの目は、あの澄んだ色を取り戻していた。
伸ばした右手から、僅かな電波が漏れ出ている。
無のまま凍っていたはずのその表情に、確かな揺らぎがあった。
Mathewの視線が、ユイの視線と重なった。今度はお互い同時に。
ユイは思わずその名を呼んだ。
「……マシュー!」
その名を呼んだ瞬間、記憶がよみがえる。
初めてユイが“マシュー”に背後から抱きついた、あの日。
不意打ちを受けた彼は、困ったように不器用に揺らいだ。
そしていま。返って来たのは驚愕、そして穏やかで温かい視線。
その時はまだ微笑みを知らなかった彼が、
『オートバランサーは良好だ』
と、照れながらも即座に返してくれたことがあった。
そして、マシューと一緒に月を眺めたあの夜。
ずっと彼はひとりで月を見ていた。
一途に、まっすぐに、目をそらさずに。
そんな月を見ても微笑まなかった“彼”が、いま、微笑む。すべてを乗せて。
ユイはMathewに向かって、音にせず言葉を紡いだ。
Mathew――いや、マシューは、またユイに向かって不器用に微笑み返す。
それと同時に、マシューの宣言が空間に響く。
――Resolve。
その膨大すぎる熱量にその名が与えられ、すべてが“確定”した瞬間。
世界は光の中へ溶けていった。
それは漆黒の中で輝く、皆既日食のダイヤモンドリングの光に似ていた。
いつだったかマシューと一緒に検索した、あの画像のように。
ユイはマシューが見せてくれた光景を思い出しながら、マシューが差し出す“四葉のクローバー”を受け取り、静かに目を閉じた。
―*―
リージョンKの領海で魚を獲っていた漁師は、当時を振り返って語る。
「それは蛇のようでもあり、線のようでもあった。天に向かって昇っていく、互いに交差し絡み合う2本の糸の様な銀色の光のようだった」と。
時を同じくして、リージョンKの沿岸で若い女性が発見された。
アハド家によって保護された女性は身元調査の結果、行方不明とされた「ユイ・リア・カイドウ」その人であることが判明する。迎えにやって来たミカゲ・カイ・マガミと感動の再会を果たしたというニュースは、瞬く間に世界へ広がった。
それから8年の歳月が流れた。
ユイは息を引き取るその瞬間まで、“女王”として、世界のために献身し続けた。
さらにユイの亡き後。
成人を迎えたユーリ・カイ・リア・カイドウが、母の遺志を継ぎ新たな世界を構築した。
その礎を作ったユイを、人々は偉大なる聖女として、後世にわたり讃えたのだった。
この愛は巡る。
次はあなたのもとに、誰かからの“四葉のクローバー”が届くかもしれない。
END
