08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

 周囲から完全に水が消えた。
 背後から歩いてくる音がする。足音に混じって聞こえる静かな機械音。
 距離を詰めてくるのが誰なのか、ユイは振り向かずともわかった。

 Mathew。
 いや、違う。
 Mathewの身体を依り代にした、世界の守護者・シュゼルトだ。
 ここは世界樹(クレスコル)の核。シュゼルトの領域。
 そんなシュゼルトと同格たり得るのはユイだけだ。
 そしてヒロトが自身の目的に使えなくなったと知った今。
 残された駒はMathewしかいない、ということか。
 Mathewの美しい水色の目が、ヒロトの目のような紫色に変わっている。
 それでもユイは歌を止めない。いや、止められない。

「それが君の結論か。……理解できないな」

 目に続き声すらも、もうMathewのものではなかった。
 魅惑的なあの、ラウルの声だ。

「なぜ私に逆らう? すべてを委ねて良いのだぞ?」

 甘く誘うように語りかけてくる。
 それは“贋物”。
 意図的に使われているだけの音声に過ぎないことを、ユイは理解していた。
 澄んだユイのソプラノは、静寂な空間を切り裂くようにサビの歌詞を追う。
 その旋律の向こうで、“ヒロト”は、歌うユイを見つめていた。
 
 ヒロトが穏やかに微笑むと、その姿が少しずつ光の粒子として末端から崩れ始めた。
 それはシュゼルトの支配からの解放。
 もう歌は必要ないと、ヒロトの紫色の目が告げていた。
 ユイは、煌めきながらほどけていくその光を、最後まで見届けた。

 今までいろんな人を看取って来た。
 両目から涙が溢れる。

(それでもまた、どこかできっと会える)

 そう心でユイは祈るようにヒロトに誓った。

『……ありがとう』

 ヒロトの声が聞こえた気がした。
 優しさに溢れた、澄んだ声だ。
 それこそがヒロトの本質だった、とユイは思う。

(あなたは本当に“太陽”のような人だった。あなたに会えて幸せだった……)

 ヒロトの光の欠片がほの暗い空間に散っていく。
 涙が止まらない。

 境界線の向こうに現れた姿がある。
 ヒロトの代わりに現れたその姿を見て、ユイは息をのんだ。

「……これが本当の守護者・シュゼルト……?」

 目の前の存在は、宙に浮かぶ真珠色のクラゲに似た何かだった。
 ユイに向かって、ゆっくりと長い触手を伸ばしてくる。
 境界線の内側から、軋むような音が響いた。
 ソレは境界線を越え、ユイを丸ごと呑み込もうとしていた。

『サア ワタシ ヲ エラベ』

 その声はまだ、ラウルの声だった。縋り付くほどの執念を感じる。
 ユイが愛したものを取り込んでまで、ひたすらユイを待ち続けた存在。

(そうまでして私を望んでいたの? 私と一緒に終わる瞬間のためだけに?)

 私が失う運命だったように、シュゼルトは導く運命だった。
 いや、そうしなければならなかったのかもしれない。
 どうしてシュゼルトがレイハではなくユイを選んだのか。
 
 似ているのだ、魂が。そう、二人で一つだというように。

「私は、あなたやあなたが造った世界を選ばない。でもあなたを拒絶することは出来ない……」

 世界を変えるために犠牲となるのは、自分だけでいいとユイは思った。
 女王の因子をアゼリア全土に注げば、球骨腫はもう発生しない。

 ユイがヒビ割れた境界線越しに、その触手へ手を伸ばした、その時だった。
 空間は完全な静寂の中に飲み込まれた。

 シュゼルトの触手も。
 水はないのに気配だけは消えていなかったそれも。
 境界線の内側にいるシュゼルトすらも、その場に凍りついたように動きを止めた。

 ――8秒間。

 『世界の時間が止められた』
 
 ユイの意識より先に、ユイを支える“女王”としてのレイハの記憶が悟る。
 “誰か”が、新たな守護者として、この8秒間だけ世界を静止させているのだと。

 ユイは振り返った。
 そこにいるはずの姿を、探す。
 Mathewの目は、あの澄んだ色を取り戻していた。
 伸ばした右手から、僅かな電波が漏れ出ている。
 無のまま凍っていたはずのその表情に、確かな揺らぎがあった。
 Mathewの視線が、ユイの視線と重なった。今度はお互い同時に。
 ユイは思わずその名を呼んだ。

「……マシュー!」

 その名を呼んだ瞬間、記憶がよみがえる。
 初めてユイが“マシュー”に背後から抱きついた、あの日。
 不意打ちを受けた彼は、困ったように不器用に揺らいだ。
 そしていま。返って来たのは驚愕、そして穏やかで温かい視線。
 その時はまだ微笑みを知らなかった彼が、

『オートバランサーは良好だ』

 と、照れながらも即座に返してくれたことがあった。
 そして、マシューと一緒に月を眺めたあの夜。
 ずっと彼はひとりで月を見ていた。
 一途に、まっすぐに、目をそらさずに。
 そんな月を見ても微笑まなかった“彼”が、いま、微笑む。すべてを乗せて。

 ユイはMathewに向かって、音にせず言葉を紡いだ。
 Mathew――いや、マシューは、またユイに向かって不器用に微笑み返す。
 それと同時に、マシューの宣言が空間に響く。

 ――Resolve(リゾルブ)

 その膨大すぎる熱量にその名が与えられ、すべてが“確定”した瞬間。
 世界は光の中へ溶けていった。
 それは漆黒の中で輝く、皆既日食のダイヤモンドリングの光に似ていた。

 いつだったかマシューと一緒に検索した、あの画像のように。
 ユイはマシューが見せてくれた光景を思い出しながら、マシューが差し出す“四葉のクローバー”を受け取り、静かに目を閉じた。

 ―*―
 リージョンKの領海で魚を獲っていた漁師は、当時を振り返って語る。
 
「それは蛇のようでもあり、線のようでもあった。天に向かって昇っていく、互いに交差し絡み合う2本の糸の様な銀色の光のようだった」と。

 時を同じくして、リージョンKの沿岸で若い女性が発見された。
 アハド家によって保護された女性は身元調査の結果、行方不明とされた「ユイ・リア・カイドウ」その人であることが判明する。迎えにやって来たミカゲ・カイ・マガミと感動の再会を果たしたというニュースは、瞬く間に世界へ広がった。

 それから8年の歳月が流れた。
 ユイは息を引き取るその瞬間まで、“女王”として、世界のために献身し続けた。
 
 さらにユイの亡き後。
 成人を迎えたユーリ・カイ・リア・カイドウが、母の遺志を継ぎ新たな世界を構築した。
 その礎を作ったユイを、人々は偉大なる聖女として、後世にわたり讃えたのだった。

 この愛は巡る。
 次はあなたのもとに、誰かからの“四葉のクローバー”が届くかもしれない。

 END