08 ーHACHIー ~俺の彼女と私の彼~

 ユイは世界樹(クレスコル)の根元に揺らめく黒い水面の側に立つ。
 光の『0』の下部からは、更なる純白の奔流が、黒い水面に激しく叩きつけられていた。
 その衝撃は、静寂の水面に完璧な同心円状の波紋を描く。
 これらの波紋自体が、眩いエメラルドグリーンの光を無数に多く生み出している。
 ユイの足元に広がる漆黒の未知の液体。
 それは世界そのものの起源である『存在の海』に近いような気がした。

 この世界樹(クレスコル)とは。
 恐らく、無限の可能性と情報の循環、そして世界の基底へと力を供給し続けるもの。
 永遠に終わることのない『光のシステム』そのものだった。

(私はこれから守護者と、世界と対峙するんだ……)

 そう思うと不安がよぎった。
 素人でもこのシステムの凄さは感じ取ることが出来る。
 これほどのものを構築してしまう守護者・シュゼルトと、どうやって渡り合うというのだろう。
 
 どうすればいいか、ユイはもうわからなくなってしまった。
 それでも逃げ出すわけにはいかない。
 漆黒の水面にまっすぐに向き合い、ユイは深く息を吸う。
 静まり返った空間に、何かの音が不協和音として空間に響く――。
 それは悲鳴のようにも苦しみに堪える声にも聞こえた。
 
 ただユイにはその声に聞き覚えがあった。
 
 ――ヒロト・セナ・リーシェン。

 そう、ヒロトの声に似ていた。
 ユイの中でこの不協和音はヒロトが奏でる哀しい旋律として聞こえた。
 それはかつて体験した3月15日の記憶の中で聞いた断末魔と似ている。

(あなたは此処に居るの?)

 ユイは意識を集中させ、……耳に飛び込んでくるすべての音を消した。
 そして勢いよく水の中に飛び込んだ。
 水音と一緒に感じるその水の温度は、冷たくもあたたかくもなかった。
 水底は漆黒ではない。水底から水面にかけて光の筋が差しこんでいるのだ。

 どうして光が――?
 
 そう思って目を凝らすと、誰かが水底に居た。
 両目を閉じ、眠るように漂うその人は。

(ヒロト――!)

 その存在がヒロトだ、と確定できる要素は何もなかった。
 水底に灯る光。
 それはかつてヒロトであった存在の、淡く、あまりに清らかな輪郭だった。
 どこまでも長い銀髪の髪。それが輝きを放ちながら水の中で揺れている。

『この御方が……守護者・シュゼルトですわ。同時に現在の真のマガミ家当主でもありますの』

 当時にノイズ混じりでユイの中に伝わる映像。
 これはレイハの記憶だろうか?
 無言のレイハ。その白い頬に涙が伝う。
 横たわり傷だらけのヒロトの身体の傷を、癒している情景が見えた。
 傍には目を赤くしたレイラが寄り添い、ヒロトの身体に付いた血を拭っていた。
 過激派組織グライゼルを率いるレイハは、シュゼルトの“器”を探し出し、捧げる使命があった。
 それがユイの恋人だとわかったときのレイハの絶望と深い悲しみ、その苦悩が、流れ込んでくる。

『想うことは罪ではありませんわ。想った結果を望み求めるから“罪”になるのですわ。……それでも手を伸ばさずにはいられなかった』

 心が千切れるような祈りだった。
 
『もう誰にも、こんな哀しい選択をさせてはならない。わたくしを最後に……終わらせると』 

 誰もが十分すぎるほど苦しんだ。 
 そんな苦しみはもう終わらせていい。

『あの方は“人間の脳”に宿る……“器”(ヒロト)を解放すれば恐らく――』

 ユイを導くように告げるレイハの言葉。
 それは神・シュゼルトを裏切ることと同じだ。
 
(レイハ……) 

 最後まで友であろうとした彼女の想いを、ユイは受け止めた。
 その言葉を最後に水の中に解けていくレイハの意識。
 もう不安はない。
 かつてヒロトを探そうとしたように、目指す道の先にヒロトがいる。
 
(ヒロト……!) 

 ユイがある程度近づくと、見えない壁がある。
 “境界線”だ。

 ユイは目を閉じて、心の中でヒロトの名前を呼んだ。
 水の中では何も伝えられない。
 それでも想いはどんどん喉の奥からこみ上げて来る。
 ユイはその壁を必死で叩いた。
 心の中で“ヒロト”の名前を呼びながら。
 息が出来ない。もう限界だと思ったとき――

 境界線を隔てた向こうで、“彼”が目を覚ます。
 その顔には驚愕――、でもすぐに優しい微笑みを浮かべる。

「ヒロ……ト!」
 
 境界線を隔てて、“彼”が見えない壁にふれる。
 ユイはその手と同じ位置に手を重ねた。
 直後、なぜか水の中でも息ができるようになった。
 声が出る。
 でもどうすればこの想いがヒロトに届くだろう?
 “彼”の口元が僅かに動く。
 それをユイはゆっくりと確認する。
 ユイの脳裏に浮かぶ、一つの可能性。

(……歌?)

 ユイとヒロトを結ぶのは“歌”だった。
 合唱団アルゼリスのメンバーとして、ユイとヒロトは同じ楽譜を持って歌った。
 同じところで間違えるユイを、ヒロトは笑って何度でも歌い方を教えてくれていた。

 二人きりで過ごしたあの夜も。
 ラルトのラブソングをふたりで聴いた。
 いつか一緒に歌いたいと言ってくれた、そんな記憶は今もなお消えずに残っている。
 
 女王のミシルシが光り始める。
 震える声で紡ぎ出したのは、かつてラウルが歌っていた歌。
 その歌詞を頭の中に描く。
 ついに叶わなかったデュエットのメロディー。
 最愛の人の幸せを願う男女のデュエット曲、『君影草歌』だった。
 
 その旋律をユイは歌い始めた。
 いつかヒロトと歌えたらどんなに良かっただろう。
 周囲の水が消えていく。
 ユイは一呼吸おき、その詩の響き――歌詞――を変えて紡いだ。
 周囲に響くのは、ヒロトへ捧げる『君影葬歌』となる。
 押し込めていた、見なかったことにしていた切なる想い。
 それが今、彼を目の前にして、心の奥から湧き上がり、そして、溢れた。

 しかし現実は。
 どんな言葉を伝えても。どんなに手を伸ばしても。
 どんなに彼を求めても、彼は戻らない。
 もう決して。それがわかる。わかってしまう。
 そう感じた時、微かにヒロトの声が聞こえた。

『君が望むその幸せを、俺は心から願う――』

 壁越しに伝わる手の温もり。
 次第に熱を帯びるその歌声。
 そして優しく、柔らかく鎮魂の中に込められたのは。――希望の光。
 互いの頬をつたう雫さえ、儚く尊い。

 今まさに、想いは境界線を越え、重なり、響きわたった。
 いつかソプラノとテナーのソリストとして、ステージで一緒に歌いたかった。
 そんな悲しいデュエットを歌うユイの頬を、一筋の涙が伝った。