それでは、ひとつだけ頂戴いたします

sideアルベルト

 クロエに呼び出され、しぶしぶ指定された邸へと向かう。

 呼び出しの文面は、いつも通り簡潔で、そしてどこか挑発的だった。用件も告げず、場所だけを指定する、奥に小さな苛立ちを抱えたまま、私は馬車に揺られていた。

 馬車の車輪が石畳を軽やかに叩き、やがて滑るようにして止まる。御者の声とともに扉が開かれた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。

 外に足を出した途端、思わず顔がゆがむ。

 ――なんだ、この邸は。

 視界いっぱいに広がる光景に、言葉を失った。

 荘厳な門構え。装飾過多にならぬ絶妙な意匠。

 隙なく整えられた庭園には季節の花々が咲き誇り、中央の噴水は光を受けて宝石のように煌めいている。

 建物は上位貴族の本邸のような威容を誇り、男爵家で用意できる規模とは到底思えなかった。


 磨き上げられた玄関扉には傷一つなく、黄金の取っ手が誇らしげに光っている。その前には、背筋をぴんと伸ばした使用人たちがずらりと並び、誰一人として視線を逸らさない。

 制服の皺ひとつない立ち姿からは、異様なまでの統率と気品が滲み出ていた。



 だが、それ以上に、私の視線を釘づけにしたものがあった。

 使用人たちの顔ぶれ。

 ……見覚えがある。いや、見覚えがあるどころではない。

 かつて、私の屋敷で仕えていた者たちだ。

 やられた。


 だが、ここで動揺を見せるわけにはいかない。私は平静を装い、何事もなかったかのように屋敷の扉へと歩を進めた。

 その時だった。

「お待ちしておりましたわ」

 鈴を鳴らすような、澄んだ声が空気を震わせる。

 顔を上げた先、玄関前の階段を、優雅に降りてくる女の姿があった。淡いラベンダー色のドレスは、動くたびに柔らかな光を含み、絹の手袋を指先まで整えながら、しなやかに扇を広げる仕草には、一片の無駄もない。

 ――クロエ。

 その姿を目にした瞬間、私は言葉を失った。

 記憶にある彼女とは、あまりにも違う。身なりだけではない。纏う空気、歩き方、視線の運び方すべてが、洗練され尽くしている。

「この邸は……なんだ?」

 自分でも驚くほど、声が荒れた。


「費用はどうした。まさか、金を持ち出したのか!」

 咎めるように言い放つが、クロエは少しも怯まない。

 むしろ、楽しげに微笑んだ。

 その余裕に満ちた表情が、私の神経を逆撫でする。


「いいえ、持ち出しておりませんわ。置いてきた帳簿をご確認くだされば、すぐにお分かりになります」

 ……では、どうやって?

 この規模の屋敷を、クロエが単独で用意できるとは到底思えない。



「じゃあ、なぜこんなものが?」

「秘密ですわ。アルベルト様、女の秘密を暴こうとするのは、紳士のすることではありませんよ」

 ……くっ。

 一言一言に滲む余裕が、苛立ちを煽る。

 だが、これ以上追及しても、はぐらかされるだけだろう。私は歯を噛みしめ、黙って屋敷の中へと足を踏み入れた。

 廊下の調度品も、息をのむほどに上質だった。

 壁には高価な装飾が控えめに施され、床に敷かれた絨毯は足音を柔らかく吸い込む。

 すれ違う使用人たち――やはり、あの顔も、この顔も。

 知っている者ばかりだった。

 そこで、ようやく合点がいった。



「……つまり、使用人たちは、私を裏切ったということか」

 案内された客室でソファに腰を下ろし、低く呟く。

 クロエはくすりと笑った。


「裏切った? それは少し違うと思いますわ」

「何が違う! 使用人たちと組んで、私から引き抜いたのだろう! だが残念だったな。あいつらが辞めても、痛くも痒くもない。マリーが優秀な者を集めてくれた」

「まぁ、語弊を招く言い方はやめてください。アルベルト様が紹介状も持たせずに、ぽいと放り出したのでしょう? ……あの時点で、どちらに問題があるのかと、噂になるのは時間の問題でしたわ」

 言葉に詰まる。

 確かに、私は不要と判断した使用人たちを、何の配慮もなく追い出した。

 だが、それを、ここまで利用されるとは。



「……悪評が立つ前に雇ったとでも言いたいのか」

「ええ、感謝してほしいくらいですわ」

 ちっ!

「ふん……それで、今日は一体、何の用だ?」

「商会の話をしようかと思いまして」

 ――商会?

 本来なら、こちらから切り出すはずだった話題だ。話が早い。


「まさか、自分が男爵だからといって、商会まで自分のものだと主張するつもりではないだろうな?」

「主張も何も、まあ、その通りなのですが」

 クロエは、あっさりと頷いた。


「ですが、私には不要ですので。お譲りしようかと。邸の件で、少し反省しましたのよ」

 その一言に、思わず笑いが漏れる。


「はは、それでこそ分を弁えた発言だ。お前では、どうせ荷が重かろう。……待て。契約も従業員も取引先も、そのままなんだろうな?」

「勿論です。名義だけ、そっくり変更いたしましょう」


 差し出された書類を、慎重に確認する。

 隅から隅まで目を通したが、不備も、罠も見当たらない。

 私は静かにサインを入れた。



「……よし。本当にそのままかどうか、確かめに行ってくる。これから商会に向かう」

「どうぞ、お好きに」

 立ち上がろうとしたが、不意に、ずっと引っかかっていたことを確かめるべく、私は足を止めた。



「……ところで、うちの馬が一頭もおらず、紋付の馬車までなかったが。何か知らないか?」

 クロエは紅茶を口に含み、実にあっさりと答える。



「ああ、それでしたら。あなたが使用人に“あげた”と仰ったものを、私が譲り受けましたの。もちろん、代金は払いましたわ」

 その瞬間、頭に血が上る。

「……やはり、そうか。返せ!」

 怒りと、裏切られたという痛みが声ににじむ。

 だが、クロエはまったく動じない。むしろ微笑を深めた。


「おかしなことをおっしゃるわ。『馬も持って行っていい』と仰ったと、聞いておりますけれど?」

 こめかみが、ぴくりと引きつる。

「馬については記憶がある……だが、馬を全部とは言っていない。それに、まさか紋付の馬車まで持ち出すとは……あれは男爵家の象徴だぞ」

 クロエは扇を静かに閉じ、にこりと笑った。

「私も男爵家の人間ですもの。必要でしたので、使用人から買い取りましたわ。アルベルト様は気前がよいと思いましたのに、返せとは……使用人たちに一筆書いたのでしょう?『文句は言わない』と」


 奥歯が、ぎり、と軋む音がした。

「ちなみに……ここまで、どうやって来られたのですか?」

 ……。

「……マリーの家の馬車を借りた」

「まぁ、紋章の付かない馬車で? ふふふ。貴族が使う馬車とは、持ち主の格を示すもの……と聞いておりますけれど?」


 嘲るような声に、屈辱と怒りが、同時にこみ上げた。


「それでは、お気をつけて」

 早く帰れと言わんばかりに扉を開けられ、促される。

 屋敷を後にする私の肩には、重く、苦々しい思いだけが、いつまでものしかかっていた。