それでは、ひとつだけ頂戴いたします

 side クロエ


「アルベルト様たちは……これで、おとなしくなるでしょうか?」



 グレゴリーが低く問いかける。その声音には皮肉とも期待ともつかない色が滲んでいた。

 私は静かに目を伏せ、ひとつ、深く息を吐いた。



「グレゴリー。思ってもいないことは、言わない方がいいわ」


 微笑を浮かべながら返すと、彼は肩をすくめて小さく笑った。


「はは、まったく。仰る通りです」

「アルベルト様は、手元に金があればあるだけ使ってしまう方。金庫に入れておいた邸の売却金も、使用人たちの給金も――もう、ほとんど残っていないでしょうね」


「先ほどの表情からしても、そのようにお見受けしました」


「アルベルト様にとってお金は、楽しむためのものであって、生きるためのものではなかったのでしょう。
 お義母様にも、平気で無心に来ていたわね。まるで、湯水のように湧くとでも思っていたのかしら」



 誰が金を稼ぎ、誰がアルベルト様の借金の後始末をしてきたのか――
 遅すぎる後悔と焦りの中で、思い知るといいわ。

 ふと、白く薄いカーテンが、風に揺れていた。窓から差し込む光は澄んでいて、美しかった。

 けれど、その穏やかな光が、お義母様の頬を暖めることは、もう、二度とない。

 私はカーテンの縁を指先でなぞりながら、そっと瞳を閉じた。




「……アルベルト様には、きちんと――思い知っていただかないと」

 囁いた自分の声は、氷の刃のように、冷たく鋭かった。





 *****



 亡くなったお義母様は、約一年前から身体を壊し、ほとんど床に伏せて過ごしていた。日に日に細くなっていくその体は、風に吹かれる葉のように、儚げだった。それでも——最後の最後まで、この家と商会のことを、案じ続けていた。

 薄暗い寝室に、かすれた声が静寂を破るように響いた。



「……ごめんなさいね……息子がああだから……この男爵家とアルヴェリオ商会が心配で……浅はかな考えで、あなたの人生を台無しにしてしまったわ……」


 弱々しく差し出された手を、私はそっと握る。その手は氷のように冷たかった。けれど、震えながらも、私の指を包み込むぬくもりが、わずかに残っていた。その微かな優しさに、胸の奥が締めつけられる。



 ——私は、もとはただの商会の一従業員だった。



 けれど、お義母様は私を見初め、アルベルト様の妻にと望んだ。婿養子であったお義父様は早くに亡くなり、お義母様は女手一つで、男爵家と商会を支えてこられた。



『あの二人を結婚させるわけにはいかないの。商会を、男爵家を潰すわけにはいかない。あなたには商才がある。お願いよ』



 あの時、お義母様は泣いていた。男爵家当主としての誇りも何もかも捨てて、私に懇願したのだ。


 当時、私の実家では父が病に倒れ、弟はまだ働ける年齢ではなかった。お義母様からの提案に迷わなかったといえば噓になるが、実際、神の助けのようにも感じた。


 支援がなければ、私たちは路頭に迷うしかない。私は——家族を守るために、この家に嫁ぐことを選んだ。アルベルト様に、決して愛されないと知りながら。




「……愛し愛される関係にはなれませんでしたが、おかげで私の実家は救われました。それに、お義母様も使用人や従業員の皆さんも、私によくしてくださった。美味しいものを食べ、良い服を着て、若奥様として慕われ……私は、十分すぎるほど恵まれていました」


 せめて、助けてくれたお義母様に、感謝を返したい、その一心で頑張ってきた。喉の奥が詰まって、うまく笑えない。涙が滲み、視界を曇らせていく。

 お義母様は目を細め、天井の向こう、何か遠くを見るような顔をした。



「……こんなことなら、何の条件も付けずにお金を渡せばよかったのよ……あなたの弱みに付け込んでしまった……死を前にして、こんなことを言うなんて、ずるいわね……」

「お義母様……」


「商会のことも、男爵家のことも、もう気にしないで。私がいなくなったら、あの子はもっと傍若無人になるわ。あなたの力をもってしても……この家は、もう終わりかもしれない。結局、私はあの子を甘やかして、切り捨てることもできなかった」


 その声は静かだった。
 けれど、言葉の奥に染み込んだ悔恨は、あまりにも深く、重かった。



「……見切りをつけなさい。そして、準備をしておきなさい。きっと、あの子は離縁を言い出すわ。あの女と……まだ、切れていないもの」



 私を案じる温かさが、お義母様の瞳の奥に確かに宿っていた。



「……あなたには才能がある。あなたの力で、どうか……でも、願わくば、使用人や従業員のことはお願いしたいわ。もう……あの子の目が覚めることなど、期待していないの」


 お義母様は、ふっと微笑んだ。それはまるで、すべてを悟り、すべてを諦めたかのように穏やかで——そして、残酷なほど寂しい笑みだった。




「クロエ、聞いてちょうだい。ーー私は、あの子ではなく、あなたにこの男爵家を譲りたい。ええ、それがいいわ」

「私に、ですか……?」


 思わず、聞き返す。



「私は平民です。そんな、大それたこと……」

「前から考えていたの。大丈夫。私に任せて。でも……譲られることが、必ずしも幸せとは限らないわ。いばらの道になるかもしれない。だから……譲られた後のことは、あなたが決めて」

「お義母様……」


「……ふふ、クロエ。次は、私の本当の娘に生まれてきてちょうだい。そしたら、あんな、ぼんくらを婿に選ばないから……」



 くしゃ、と握られた手に、弱々しくも確かな力がこもる。



「私の命が尽きる前に、すべてを終わらせるわ。そうと決まったら……今すぐ、グレゴリーを呼んでちょうだい」

 ——心の奥底が、ざわめいた。

 複雑で、名付けようのない感情が、胸の内をかき乱す。お義母様の決意。最期に託された思い。それらは重く、私の肩にのしかかった。

 数日も経たぬうちに、手続きは次々と進められていった。

 けれど、意識のある時間は次第に短くなり、お義母様の顔は日に日に青白くなっていった。



 その間、どれほど使いを出しても、アルベルト様が帰ることはなかった。


『いいのよ』と微笑むお義母様の、その目の奥に浮かぶ悲しみを見るのが、私はつらかった。


 ——こんな時に。お義母様がもっとも頼りにすべきその人が、どこで何をしているのか。



 怒りが、私の中で静かに沸き上がる。それはやがて、抑えきれない炎となり、胸の内を焼き始める。




 私はずっと、この商会と男爵家を守ろうとしてきた。
 お義母様のために。皆のために。そして……この家のために。


 でも——

 お見送りをしたら。


 私は目を閉じる。涙が、頬を静かに伝い落ちた。震える手を、お義母様の手に重ねる。それだけで、どうにか感情を堪えようとした。けれど、それは無理だった。



 私の中で、何かが音を立てて崩れていった。

 そして、怒りと共に、冷徹な覚悟が私の中に静かに降り積もっていく。



 ——もし、彼が、お義母様が遺したものを甘んじて受け取り、苦しみや悲しみに気づかぬまま、幸せを謳歌しようというのなら。



 その手には、何一つ残させない。
 私のこの手で、すべてを、奪い去ってみせる。