それでは、ひとつだけ頂戴いたします

 sideアルベルト



「ご理解いただけましたか?」


 クロエの静かな声が、ひやりと空気を震わせた。室内の温度が一気に下がったように感じる。



「……証拠は?」

 喉がひりつく。言葉を発するたびに、砂を噛むような感覚がする。震えを押し殺しながら問い返すと、クロエは変わらぬ無表情のまま、一枚の書類を差し出した。


「こちらが爵位譲渡証明書です」



 白い指が、淡々とした仕草で書類を押し出す。乾いた音を立てて紙を手に取る。指先に力が入らない。

 薄く黄ばんだ紙の上に並ぶ文字を追うほどに、胸の奥が冷えていく。心臓がひとつ鼓動するたび、氷の刃が突き刺さるように痛い。

 間違いない。——母上が、本当に爵位をクロエに譲ったのだ。

 視界が揺れる。


 現実が滲んで、遠のくような感覚に襲われた。水底に引きずり込まれるような——。頭の中で何度否定しても、目の前の事実は変わらない。



「……邸は売らずに、私に譲渡でもよかったのではないか? 義兄、か、家族なのだろう」



 必死に言葉を絞り出す。声はかすれ、自分のものとは思えないほど弱々しい。

 クロエは涼やかに微笑んだ。その微笑みは、優雅でありながら、どこか冷たい。



「あら、そういう手もありましたわね。でも、あなたが欲しがっているとは気づきませんでしたもの。大変失礼をいたしましたわ」


 何も悪びれた様子はない。


「アルベルト様、お急ぎになった方がよろしいかと」



 クロエの声は、静かで淡々としているのに、無慈悲に現実を突きつける。



「邸はすでに売却済みです。でも、調度品等の売却の手配はしておりませんので、必要なものがあれば運び出さないといけませんね。お忙しくなりますわ」


 全身の血が冷たくなるのを感じる。指先が痺れる。どこまで準備を進めていたのか。どれほど前から計画していたのか。

 この家は、もう俺のものではない。



「それでは、失礼いたします」




 クロエは優雅に一礼すると、踵を返した。

 その背は、隙がないほどに美しく、元平民とは思えない高貴な淑女そのものだった。

 音もなく歩き去る彼女を、呆然と見送るしかなかった。



 ——終わった。すべてを失った。



 現実味がない。そんなはずはない。だが、どう足掻いてもこの事態は変わらない。じわじわと、足元から崩れ落ちるような感覚に囚われる。

 長年立っていた場所が、突然消え去ったように——。


 屋敷の静寂が、余計に耳を刺す。昔からいた執事も、使用人も、すでにいない。壁に掛けられていたはずの家族の肖像画も、いつの間にか外されている。



 自分がここに存在した証すら、すべて消し去られたかのようだった。

 何も考えられない。心が空っぽになったまま、足を引きずるように歩き出す。

 行く先はただひとつ——。

 マリーが待つ部屋へ。






 扉を開くと、彼女はすでにこちらを見ていた。
 爵位を失ったなど、そんな話をこれからされるとは思っていない穏やかな顔だ——。



「クロエとの話は、どうなったの?」



 静かに問いかける声が、広い部屋の中に染み渡る。

 喉が詰まった。

 どう伝えればいい? 爵位が奪われたことを話したら、マリーはどう思うだろうか。
 驚くだろうか。怒るだろうか。泣くだろうか。
 それとも——。

 だが、言わねばならない。

 頭の中はまだ混乱したままだったが、目の前で起こった現実味のない出来事を、事細かく話し始めた。

 マリーは、じっと黙って聞いていた。

 そして、私が語り終えたとき——。



「まあ、そうなの」


 え? それだけ?

 思っていた反応とは違った。



「……あなたの母とクロエなら、やりそうなことね」



 呆れるでもなく、怒るでもなく、まるで予想していたかのように淡々としている。



「ふふ、大丈夫よ、アル」


 マリーは微笑んだ。

 その笑顔に、張り詰めていた何かが、ほんの少し緩む。



「取り返す方法なんて、いくつもあるのですもの。まずは現状を何とかしないとね。私の家にこの邸の大きな家具は入らないのだから、とりあえず私の実家のバルト商会にすべて預けるということでいいかしら?」

「……本当か?」


 思いがけない提案に、わずかな希望が差し込む。


「そうしてくれると……助かる」

「ええ、ならさっそく商会の者を呼んで、荷物を運び出させるわ」



 テキパキと話を進めるマリーを見ながら、彼女の強さに驚かされる。

 こんな状況でも、彼女は動じない。



「そうね——」



 彼女は少し考え込み、それからふっと口角を上げた。



「古い屋敷をあてがわれるより、広くてきれいなタウンハウスの方がいいわ。使用人も減ったし、ちょうどいいじゃない」

「タウンハウス……?」



 呆然とその言葉を繰り返す。

 そんな発想はなかった。

 今すぐ何かを考える余裕もないというのに、マリーはもう次の一歩を見据えている。

 なんてポジティブなんだろう。



「……ああ、素敵なタウンハウスに住もう」



 ぽつりと呟くと、マリーは微笑んだ。



「じゃあ、私、探しておくわね」

「私にはマリーがいてくれる。それだけでいい」

「ふふ。わたしもよ。でも——やられっぱなしは性に合わないわ。爵位を取り戻す意志はあるのよね? このまま引き下がらず、手を考えましょう」


「ああ、もちろんだ」


 彼女の赤い唇がわずかに上がる。

 失ったものは大きい。それでも——マリーとなら、まだ終わりではない。なんて心強いんだ。



 その夜、私は久しぶりに、ほんのわずかだが安堵して眠りについた。

 何もかも失ったと思っていた。

 だが、マリーがいる。彼女は動じず、現実的で、しかも前向きだ。
 

 翌朝。

 まだ日が高くなる前だというのに、屋敷の前庭が騒がしかった。

「アルベルト様、バルト商会の者が到着いたしました」

 使用人の声に、私は頷いた。

 マリーの手配は早い。さすがはバルト商会の娘だ。これらの大きな家具を、一時的とはいえ引き取れる商会など、そう多くはない。

 前庭には、見慣れぬ荷馬車が何台も並び、屈強そうな男たちが忙しなく動いていた。

 だが。

 違和感がある。

 彼らの動きは手際が良すぎる。何をどの順番で運び出すか、最初から決められていたかのようだ。



「マリー、随分と準備がいいな」

「ええ。商会の方で、前から目を付けていた調度品が多かったものですから」


 さらりとした答え。

 まあ、いいか。

 昼を過ぎた頃になると、邸の中は、目に見えて空っぽになり始めていた。

 壁の装飾、書棚、応接用の家具。

 気づけば、祖父の代から受け継がれてきた品々まで運び出されている。



「……それも持っていくのか?」

 思わず声をかけると、マリーは少し首を傾げた。

「だって、タウンハウスには置けないでしょう? 預けておいた方が安心よ」

 その言葉に、私は黙った。確かに、今の私には選択肢がない。

 その時――。


「失礼いたします」

 落ち着いた声が響いた。振り返ると、そこに立っていたのは、見知らぬ老紳士だった。身なりは質素だが、背筋は伸び、眼差しには知性が宿っている。


「だれだ?」

「私は、前男爵様のころより、この邸の管理を任されている者でございます」

 母上の頃から?一瞬、理解が追いつかなかった。


「売却の契約は昨夜付で完了しております。一応、ご確認をと思いまして」

 老紳士は淡々と告げ、書類を差し出した。

 
 日付。
 署名。

 間違いなかった。


「なお、本日中に内部の確認を行う予定でしたが……」

 老紳士の視線が、運び出されていく家具へと向く。

「随分と持ち出されているようですね」


 マリーの方を見ると、彼女は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


「何か、問題でも?」

 次の瞬間、彼女はにこやかに言った。

 その言葉に、老紳士の眉がわずかに動く。

「……いえ、何も問題はありません。ただ、あまりにも早いご対応、そう思いまして」


 だが、マリーは平然としている。むしろ楽しげに、唇を吊り上げていた。