それでは、ひとつだけ頂戴いたします

 sideアルベルト



 冷たい空気が部屋に満ちる。



「お、お前が当主だと!? 何を言っている、そんな馬鹿なことがあってたまるか!」


 怒りで顔が熱くなるのを感じる。

 拳を握りしめ、歯を食いしばる。信じられない。いや、信じたくない。だが、目の前のクロエは淡々とした口調で続けた。



「そんなことをおっしゃられても、事実ですし」


 コテンと首をかしげながらも口から出る声は無機質なもの。淡々とした態度。余計に苛立ちが募る。

 何故だ? 何故そのようなことになっている? 胸の奥がざわつき、視界が歪む。

 クロエは肩をすくめ、まるで取るに足らぬことのように告げる。



「この邸も、本来、当主である私のものなのですが、持って行っていいのは一つだけだと念を押されましたので考えたのです。そもそも運び出せないものですし……ですので思い切って売りに出しましたわ」

 クロエが、満面の笑みでほほ笑む。


「なんの相談もなくか!? ふざけるな!」



 思いっきり机を叩く。私が生まれ育った家だぞ! 勝手な真似を。


 だが、クロエは変わらず冷静だ。



「ですが、あなたはいつも『こんな古臭い邸』とおっしゃっていましたし、ほとんどマリー様の家に入り浸っていたではありませんか? てっきり、この邸が嫌いなのだと思いましたわ」

 飄々と悪気がない様子で話す。



「そういう問題ではない!」

「ふふ、そんなにお怒りにならないで。私もお義母様たちとの思い出もありますし、すごく迷ったのですよ。でも、当主の私が住まない男爵家の邸など、必要あります? ですので、思い切って売ることに決めたのですわ」


 クロエは肩を竦める。




「でもご安心くださいませ。邸を売ったお金はちゃんと置いてあります。持ち出してはおりません。書斎の金庫の中に入れておきましたわ」


 くっ! ずいぶん金が入っていると思っていたが、あの金は給料だけではなかったのか! 


 グレゴリーが静かに言葉を継ぐ。


「何せ、古い邸ですから、二束三文でございました。まあ、相手も商売ですから買い戻すのであれば、その二、三倍はかかるかと。アルベルト様のお好きになさるとよろしいと思います」


 現金などもうわずかしか残っていない。額に青筋が浮かぶのを感じる。しかし、それ以上に、思考が追いつかない。



「……待てグレゴリー。お前が持ち出した印章の話が終わっていないぞ」

「旦那様が、一つ持って行ってもよいと仰ったのでは?」

「常識的に考えろ! あれはお前に必要のない物だろう!」

「ええ、私には必要ありませんが、クロエ様には必要なものです」


 クロエがふわりと微笑む。


「そうなのです。アルベルト様がグレゴリーに一つ譲ると言ってくれて助かりましたわ。なにせ、私が持って行っていいのは一つだけでしたもの。グレゴリーが印章を持ってきてくれて本当によかった。でも、たった一つもらえる権利を私のために使ってしまってグレゴリーに何だか申し訳ないわ」


 グレゴリーが軽く首を振る。



「これからお仕えする方の役立てば本望でございます」

「そう言ってくれると嬉しいわ。でも、そもそもアルベルト様は当主ではないのですから、貴方にも必要のない物ですわよね? どうしてそんなにお怒りになっているのかしら?」



 思考がまとまらない。視界が揺れる。まるで、足元が崩れ去るような感覚。



「クロエ……だ、男爵位の説明をしろ。どういう経緯でこうなった? 私は、私は、今どういう立場にいるのだ……?」



 クロエが、僅かに目を細める。



「そうですわよね。お義母様の死に目にも駆けつけず……いえ、そのずっと前から、お金を取りに来る以外では邸に寄り付かない。そんなあなたが、この男爵家のことをほとんど知らないのは当然のことですわね」

「っ! お前の嫌味など聞きたくない。ただ、聞かれたことだけに答えろ!」


 余裕な表情が、腹立たしい。



「まあ、お義兄様ったら、せっかちですわね」

「……お、おおお義兄様だと!?」



 心臓が跳ね上がる。言葉の意味が、理解できない。元夫だろう? お義兄様とは一体なんだ!

 クロエはにっこりと微笑む。



「ええ、私たちはとっくに離婚しておりまして、私はその後、この家に養子に入りましたの。私は年下ですから、お義兄様で間違いありませんわよ?」

「とっくにって、いつだ? 私はサインをしていないぞ! 夫婦が兄妹……そんな、倫理に反することがまかり通るはずが……!」

「通るのですよ」


 クロエはさらりと言った。



「なにせ、私たちは『白い結婚』でしたもの。夫婦らしい関係など何もなく、私はどちらかというと、あなたにとって使用人のような立場だったと認識しておりますわ」


 妻として誰にも紹介したことはない。私のために金を稼ぐ者。両親の世話をする者。マリーとの恋に不必要な者。


 クロエの声が静かに響く。



「国も、あっさりとお認めになりましたわ。そもそも、お義母様が、倒れられてからこの男爵家のために働き、税を納めていたのは私だと証明されましたし、あとはお義母様がお認めになり、書類を提出してくださったので」

「私は、母上の実の子だぞ! 母上がそんな、血のつながらない赤の他人に……」



 足元から崩れ落ちた。だが、クロエの視線は冷たいままだった。

 そして、静かに告げる。



「この数年、いえ、せめてこの数日のあなたを振り返ってみたらどうかしら? 実の子であれば、母の死を悼むものではなくて?」



 鋭い言葉が、胸に突き刺さる。言葉が出ない。喉が詰まり、息が苦しくなる。

 何かが、決定的に終わったことを悟る。