それでは、ひとつだけ頂戴いたします

 sideマリー

「マリー様、セリウス商会のエリック様がおみえ……あっ!」


「……マリー! お前、俺を利用したな!」

 使用人を押しのけ入ってきたエリックの怒声が室内に響き、空気が一瞬にして張り詰めた。


 その端整な顔に怒りが走り、凍てついた瞳が燃えるような激情を宿している。
 彼の背後では、護衛たちが慌てて扉を閉めた。

 私は紅茶を口に運ぼうとした手を止め、ゆっくりとカップをソーサーへ戻した。


「エリウス様、どうかなさいまして?」

 唇には微笑みをたたえたまま。でも、来た理由に想像がつく。



「婚約って――どういうことだ!」

 ああ……やっぱり、知ったのね。エリックの低く、けれど抑えきれない怒りが、言葉の端から噴き出していた。



「ごめんなさい。父の……意向に、逆らえなくて」


 できるだけ穏やかに言ったつもりだった。
 でも、その言葉は彼にとって、ただの挑発に聞こえたのだろう。



「調べたぞ。……嘘をつくな、マリー」

 彼の目は、まっすぐ私を見据えている。感情がぶつかる。もはや、笑顔など意味をなさなかった。



「は……はは。今朝、父に提言した。“バルト商会との全契約を即座に凍結すべきだ”ってな!」

「何ですって!!」

 思わず目を見開いた。けれどその瞬間、彼が叫んだ。

「黙れ!」


 机が叩かれ、音が弾けた。部屋の空気が震え、周囲にいた使用人たちが身を引く。誰も、口を挟めなかった。


「“俺との婚約を考えている”と俺に言っただろ。それを信じて、お前のために、どれだけの契約を通したと思ってる? ……裏切ったのは――そっちだ! 父は、元々お前のとこの商会を手に入れようと動いていた。私がそれを止めていた。なのに、なのにだ!!」

 一歩、エリックが前に出る。その気配に、空気が張りつめる。その時、使用人が慌てた足音で駆け寄り、耳元で小声で何かを囁いた。


「……! 本当に、全ての契約が……?」


 その様子を見たエリックは、顔を歪めながら、ニヤリと笑って出て行った。


「旦那様が……お呼びです」


 ああ……まずい。

 ゆっくりと立ち上がり、けれど内心は、冷たい汗が背筋を伝っていた。



「見ろ! この取引も、打ち切りだ!!」

 父の怒号が、応接間に響き渡る。その手に握られていたのは、届いたばかりの報告書だった。


「……ローズ商会との香料契約も……本日をもって無効ですって……?」

 震える声で書類を読み上げる。紙の端が、細かく揺れている。



 目の前で崩れていくのは、ただの契約ではない。
 我が家の「信用」そのものだった。

 机に広げられた報告書の山。
 そこには、主要な取引先の契約解除通知が、次々に積まれている。

 ――その全てに、ただ一つ共通するものがある。

 “セリウス商会”の名だ。


 あの商会が後ろ盾となっていた者たちが、次々と我々との関係を断ち切ったのだ。
 まるで合図でもあったかのように。


「やられた……水面下で、全部仕組まれていた……!」

 父の肩が、初めて見るほどに落ちていた。
 豪胆で知られた男の背に、言葉にならない敗北の色が滲んでいる。


「お父様……」

 私が声をかけると、父は顔を歪めて、こちらを見た。

「マリー……お前だ。お前が魔道具を借りて、偽証のために使った。そして、それがセリウス商会にとって格好の脅しの材料となった。よりによって、あの商会長に弱みを握ぎられている……! 手が出せん」

「……そんな……」

「噂が広がる。手を講じなければ、こちらに否があるように皆が受け取る。このままだと、バルト商会は“信用のない商会”として……すべてを失うぞ」



 そこへ、足音を荒げて、会計係が駆け込んできた。

「ご報告を! ……商会本部のある土地が、買収交渉に入った模様です。セリウス側が――地主と接触しています!」



 空気が凍る。


「まさか、我々を……追い詰めるためか……!」

 父が唇を噛む。冷や汗が額に滲んでいた。

(――囲い込まれている。私たちはもう、どこにも逃げ場がない……)



 数日前まで華やかだった応接間。笑い声の絶えなかった空間は、いまや凍りついた静寂に包まれている。

 貴族たちは、誰よりも早くこの空気を嗅ぎ取るはずだ。

 その時、扉の前に立つ執事が、震える声で告げた。



「……セリウス商会の使者がお見えです」



 重く、軋む音を立てて、扉が開かれる。

 現れたのは、端正な身なりの、初老の男。その顔に浮かぶのは、穏やかすぎる微笑みだった。



「バルト商会が、正式に“合併”をお考えであれば、我々はその意志を尊重いたします」

「……貴様ら……最初からそのつもりで……!」



 父の声は震えていた。
 怒りと、恐怖と、何よりも――悔しさで。



「早くお決めになってください。“切り札”がまだ残っているとでも? たとえば――“ベラトラム男爵”の名義ですか?」


 彼は、ほんの僅かに口元を歪めた。――冷たく、余裕のある勝者の笑みで。



「すでに彼の個人資産は債権者に押さえられました。爵位は持っていても、実態は“借金まみれの貧民”です」


 応接間の空気が変わった。誰も、言葉を継げない。

 父が、静かに言い放った。



「バルト商会は、このままではもう……終わりだ。マリー、お前のことを切り捨てる」

「私は……一人娘よ。そんな……」

「そうだな。だが――婚外子なら、何人もいる。お前が“もっとも有益”だったから、傍に置いていただけだ」


 世界が音を失ったようだった。



「アルヴェリオ商会はお前にくれてやる。……婚約者と共に勝手に生きろ」


 アルと……負債を、背負って――?


 私は、立っているのがやっとだった。





 *****



 sideアルベルト



 書斎の中では静かな沈黙が満ちていた。
 私は、机の前で一枚の書類を見つめ、額に手を当てていた。



「……これは、なんだ? 資産差し押さえ?」

 眉間に深く皺を寄せる。
 目の前の数字が、現実と思えなかった。

「アルベルト様、旧ベラトラム家の資産と共に、“負債”も爵位継承と共に移りました。貴族法第十三条、“家の権威を受け継ぐ者は、義務と責任を同じくする”」


 執事の言葉は、冷たく理路整然としていた。だが、胸を抉ったのは、まさにその“冷静さ”だった。



「……まさか……これ全部?」



 時期を見れば、私の名義での借金が帳消しになったのと、まったく同じ時期だった。
 書類に並ぶのは、豪奢な宴の記録、賭け事、贈答品――繰り返された散財の数々。かつての私が、何の責任も持たずに重ねた借金か? 


「私は……借りてなんか……!」

「“ベラトラム男爵”が借りたのです。あなたは、その名を継いだのですから。今まではエレオノーラ様、その次はクロエ様が支払っていました。今回の差し押さえは、貴方が、確実に返していける保証がないと判断されたからでありましょう」



 乾いた声だった。
 感情を一切含まない、ただの事実の通告。
 膝から力が抜けたように、壁にもたれた。ゆっくりと、身体が崩れ落ちる。


 更に商会を継いでからの借金も加わるという。どういうことだ? マリーが手配した者が、上手く都合をつけていたのではなかったのか?



「……こんな金額、返せるわけがない」

 ささやくような声しか出せなかった。



 自らの過去が、自らの足に鎖を巻いたのだ。