それでは、ひとつだけ頂戴いたします

「クロエ……君の言う“けじめ”も、もう終わりにしていいんじゃないかな」

 ルシアンの声は、いつものように柔らかく、けれど、どこか苦しげだった。


「いいえ、まだよ」

 私の答えは静かだったけれど、揺るぎのない意志がそこにあった。


「でも……もう、彼は全てを失った。地位も、信頼も、人としての尊厳さえも。そこまでして、まだ続けるの?」

「……お義母様の、悲しげな顔が思い出される限り続けるわ」


 私はゆっくりと目を閉じ、ひとつひとつ思い出を辿った。


「忙しい人だったのに、私の他愛のない話を、お義母様はちゃんと耳を傾けてくれた。私の好きな本を覚えてくれて、感想を交わした。仕事でつまずいたときには、一緒に答えを探してくれた。お出かけを計画して、二人で歩いた季節の道を、今でも覚えてる。私が大切にしているものを、誰よりも尊重してくれた。病気になった時には、夜通しそばについていてくれたし、誕生日や何気ない日にも、心のこもった贈り物をくれたのよ」

 私の声が震える。


「幼いころに母を亡くした私にとって、お義母様は……あの人も“母”だったの」

「……そうか」


 ルシアンは短く呟いた。


「だから……だめなの。終わらせられないの。お義母様が抱えていた苦しみは、きっとこんなものじゃない。私が、娘の私が、それを見過ごすなんて……そんなの、できない」

「でも、今の君もまた、苦しんでるように見えるよ。ひとりで抱えるには、あまりにも重すぎる」

「私のことは……いいの」

「月並みな言い方かもしれないけど――エレオノーラ様は、そんなふうに君が苦しむことを、望んでいないと思う。君にとって本当の母のような存在だった彼女なら……きっと、クロエが心から笑っていられる未来を願ってるはずだ」



 私は答えられなかった。言葉にできない想いが胸を満たして、ただ、視線を落とすしかなかった。



「……ごめん、ルシアン。一人にさせて」



 彼は静かにうなずき、そっと部屋を後にした。

 私は引き出しの奥にしまっていた、古びた銀細工の小箱を取り出した。丁寧に磨かれたその蓋を開け、手紙を取り出した。


 何度も繰り返し見たその手紙を震える指で、丁寧に広げる。

 

『クロエへ――あなたの選ぶ未来を、誰も否定する権利はないわ。どうか、自分を大切に』

 

 ……未来、大切――



 私は、その言葉の意味を、取り違えていたのかもしれない。お義母様ではなくただただ私がアルベルト様を許せなかっただけ。
 唇をかみしめ、頬をつたう涙をぬぐった。

 大きく息を吸い込む。胸の奥まで空気を満たして、迷いを押し流すように。

 そして、私は立ち上がった。

 ルシアンの部屋の前まで歩き、扉の前で一度、深く息を吸う。

 小さく、けれどはっきりとノックした。

 

 扉が開いた。


「クロエ?」


 聞こえた声は、あたたかくて、どこか申し訳なさそうだった。



「クロエ、さっきは……亡くなった人の気持ちを、勝手に代弁してしまって、ごめん。でも、それでも、私は……君には、いつだって心から笑っていてほしいんだ」

「ありがとう。……私こそ、ごめんなさい」


 私は、ルシアンの深く澄んだ瞳を見つめて、静かに微笑んだ。



「ルシアン。……次で、終わりにするわ。ええ、終わらせる」



 彼の睫毛がわずかに揺れ、疑わしげに瞬いた。



「本当かい?」

「ええ。これで本当に……最後。だから――お願い。最後まで、私を見届けて」


 一拍、彼の目に苦しげな光が差したが、それでも柔らかな声で答える。


「……ああ。君がどんな道を選んでも、傍にいるよ」


 その声に背を押されるように、私はこれまで胸の奥にしまっていた決意を言葉にする。



「実はね、ルシアン。私……アルベルト様に爵位を譲ろうと思うの」

「……爵位を?」


 彼の表情が僅かに険しくなる。だが、私は頷いた。


「ええ。アルベルト様はね、何もわかっていない。爵位というのは、栄誉の証でもあるけれど、それ以上に重く、息が詰まるほどの責任を背負わされるもの。義務、犠牲、望まぬ視線と期待……そのすべてを、お義母様は黙って抱えてこられた。私は、その重さを身に沁みて知っている。アルベルト様にも、それを味ってもらわないといけない」

 ルシアンの瞳が静かに細められる。


「……没落するかもしれないな」

「ええ、そうね。でも、それもまた必然よ。お義母様が、死に際に私へ託してくれたものは、栄光ではなく、覚悟と、あの家で生きた者の誇りだった」


 私は目を伏せる。そして、口元に寂しげな笑みを浮かべた。


「だから私は、私の意思で選ぶ。アルベルト様に、覚悟と誇りを継がせる。血を継ぐ者として、彼がどこまで歩めるのかを見届けるわ。……でも、きっと彼が、最後のベルトラム男爵として、その幕を引くことになる。だとしても、私はその道を、選ぶの」


 そうでなければ――いつか彼があの世で、お義母様と再び巡り会ったときに、心から謝ることなどできないわ。
 ルシアンは目を伏せ、しばし沈黙したのち、低く囁いた。


「……ああ、そうだな。きっとグレゴリーも理解してくれる」

「そうね。理解してくれると、嬉しいわ」



 私はそっと息を吐いた。ほんの少し、胸の重荷が軽くなったような気がした。