それでは、ひとつだけ頂戴いたします

 sideアルベルト


 柔らかな陽光が窓辺に差し込み、絨毯の上に淡い模様を描いていた。

 けれども、邸の空気は決して穏やかではなかった。暖かな光とは裏腹に、部屋に漂うのは張り詰めた沈黙。まるで嵐の前の静けさのように、部屋にいる使用人たちが息を潜めていた。


 その仕草は様々だったが、皆の目には覚悟が宿っていた。侍女長の固く引き結んだ唇が開き、静かに、しかしはっきりと告げる。



「……旦那様。今日は私どもの給料日ですが、今月の現金がございません」


 ……やれやれ。また厄介なことを。心の中で舌打ちしながらも、顔には出さない。

 私は深々と椅子の背に身を預け、腕を組む。額にうっすらと浮かぶ苛立ちを抑えながら、一つ息をついた。



「……来月まとめて払う」

「来月……ですか?」


 疑念を滲ませた声。そんなに驚くことか? 商会の売り上げが入れば、どうとでもなる。1か月くらい待てばいいではないか。


「私たちは、給料を当てに、皆、家計をやりくりしているのです。それが曖昧な約束で先送りされるなど、到底受け入れられる話ではありません」

 不満げなざわめき。うんざりする。

 そもそも、執務室の金庫にかなりの金が入っていたんだ、金があったら使うに決まっているだろう。ったく、使用人の給料なら、わかりやすくそう書いておけばいいものを。



「ないものは出せん! 来月、商会の売り上げが出たら支払う」



 それでいいだろう。払わないと言っているわけではないのに。

 不満げな顔で顔を見合わせる使用人たち


 彼らは知っているのだ。ーー私が毎夜、酒宴を開いていたことも、マリーに贈り物を惜しまないで与えていたことも。だからそんな不満げな顔をする。



「大変申し訳ありませんが、不確かな約束では、私どもは働くわけには参りません」

「……辞めると言うのか?」


 私の低く冷たい声が応接間に響いた。室内の空気がさらに張り詰める。が、彼らの目に恐れはない。

 互いに視線を交わし、一人が意を決して口を開く。



「エレオノーラ様には、大変お世話になりましたので、このまま勤めようと思っておりましたが……」

「ふん、母上か」



 舌打ちする。苛立ちが抑えられない。どうして何かあるたびに母上の影が付きまとうのか。なぜ私を支えるために、力を尽くす、そう言えないのか。今の主は私だぞ!



「全員、辞めると言うのか?」

「いいえ、残る者もおります」


 残るつもりの者はここに居ない者、というわけか。ちっ、ずいぶんと辞めたい者が多い。

 そのとき、カップの触れ合う軽やかな音が響いた。



「まあ、いいじゃない? アル」



 マリーが紅茶を口に運びながら微笑む。彼女の余裕ある態度に、私は少しだけ肩の力を抜く。


「嫌々働いてもらうのも気分が悪いわ。足りない使用人は、父の商会から連れてくればいいでしょう?」


 確かに、マリーの言う通りだ。代わりなどいくらでもいる。



「そうだな。辞めたい者は辞めればいい」


 冷たく突き放すように言うと、使用人たちの顔に影が差した。失望や諦めが浮かぶ。
 ――しかし、私には関係のないことだ。なぜ、お前たちの機嫌を取るような真似をする必要がある。


「……分かりました。それで、今までの給料ですが」

「だから、今すぐは無理だと言っただろう。そうだな……」


 私は部屋を見渡す。何か、適当に与えて黙らせられるものはないか。

 ふと嗤う。



「この家にある物一つ、給料の代わりに好きに持っていけ。ただし、私の部屋にこの人数で物色さるれのは気分が悪い。部屋以外の物にしろ」


 使用人たちが驚いたように顔を上げる。



「よろしいのですか?」

「ああ、文句は言わないと一筆書いてやる」


 どうせ、お前たちもそう言いだすのだろう?

 一瞬の沈黙の後、使用人の一人が恐る恐る口を開いた。




「それでしたら旦那様、私、馬が欲しいのですが」

「構わん。母が遠乗りするための馬など、私は興味がない」


 私は、馬に乗るのが好きではないからな。

 彼らの表情がかすかに和らぎ、ざわめき出す。はっ、くだらない。馬を売って金にする気なのだろうが、歳をとりすぎているから、大した金にならないはずだ。乗らない馬など餌代や手入れだけでも金がかかる。


 思わず歪む口元を隠す。マリーに目配せをすると満足げに微笑んでいた。

 この数日間で、価値のあるものはすべて部屋に移してある。つまり、残されたのは取るに足らないがらくたばかりだ。


「分かりました。では、失礼します」


 メイド長が頭を下げ、使用人たちを促しながら足早に部屋を後にする。

 静寂が戻る。


「ふふ、ねえ、アル? あの人たち、紹介状をくださいって言わなかったわ」



 マリーが楽しげに笑いながら、私の肩にもたれかかる。



「確かに……くれてやるのは一つと言ったのに、目の前の物に惑わされるとは、愚かなものだ」



 肩をすくめる。何とも浅ましい。紹介状がなければこの貴族の世界では次の仕事場を見つけることなどできないというのに。



「きっと、後から気づいてまた来るんじゃなくて? 紹介状がなければ雇ってくれるところなんてどこにもないのだから」


 泣いて縋る使用人たちの姿を思い浮かべ、思わず笑いがこみあげる。


「はは、そうしたら、『やるのは一つと言ったから、紹介状はやれない。働くところがなければここで働け』とでも言ってやるさ。もちろん、今より安い給料でな」

「まあ、アルったら。いい考えね」



 マリーの指が私の髪を弄ぶ。私は彼女の手を取り、白い指に軽く口づける。

 夜の帳が降りる中、私たちの笑い声だけが屋敷に響いていた。