それでは、ひとつだけ頂戴いたします

「――今日でお前は終わりだ、クロエ!」

 法廷の扉が勢いよく開かれると同時に、アルベルト様の怒号が場内に響き渡った。声の主は、勝利者を気取るような足取りで正面に進み出てくる。その姿は胸を張り、顎を上げ、誰が見ても「正義はこちらだ」と言いたげな態度だ。

 ……滑稽。まるで芝居の舞台に登場する、三文芝居の悪役そのものね。



「終わり、ですか?」

 私はゆっくりと立ち上がり、微笑を浮かべて言葉を返す。その笑みに棘を含ませることはしない。ただ、静かに、冷たく。



「爵位は正式な手続きを経て譲られたものです。感情に任せた言いがかりで呼び出されるとは……正直、迷惑しています」


 私の言葉に、アルベルト様の顔がぐっと引きつる。怒りと戸惑いがないまぜになったその表情は、今にも爆発しそうな火薬のよう。



「言いがかり、だと……!? お前が……お前が母を脅して爵位を奪ったんだ!」

 声を震わせ、彼は続ける。その姿は、怒りのあまり我を忘れた人間そのものだった。



「どれだけ、母上が……! かわいそうに……! お前のせいで、辛い思いを……!」

 言葉にならない激情が、彼の喉を震わせる。涙声の中に、自分に都合のいい記憶だけを抱いた男の哀れさがにじんでいる。



「看病していると思っていたのに……陰で暴言を吐いていたなんて……っ、もし私がそばにいたら、絶対に、そんなことさせなかった!」



 ……そばに? 私は静かに、目を細める。私が何度送った手紙を、彼はことごとく無視した。病床の母を訪れることもなく、顔すら見せようとしなかった。

 そのくせ、今さら何を――



 ……でも、この話し方……証言を本物だと思っている? ふと、胸の中に冷たいものが流れ込む。
 なるほどね。マリーが、全てを隠して彼を送り出したのね。



 確かに、本当のことを知っていれば、彼は確実に自分で墓穴を掘るもの。




「まあ、ともかく。中に入ろうか」



 傍らに立つルシアンが静かに促す。その声が私の肩に優しく触れ、冷えた心を少しだけあたためてくれる。やっぱり、同行を頼んで正解だった。

 法廷の入り口へ向かう直前、ふと視線を感じてそちらに目をやると――柱の陰に、弟の姿があった。緊張した面持ちで、こちらを心配そうに見つめている。

 ふふ、大丈夫よ。私は微笑み、小さく頷いて見せた。

 そして、静かな法廷へ足を踏み入れると――荘厳な空気の中、重く低い声が場を支配する。



「では、主訴を読み上げる」

 法務官の声が、冷ややかに響き渡る。



「アルベルト・ベラトラムは嫡男として爵位を継ぐ立場にあったが、クロエ・ベラトラムが病床のエレオノーラ・ベラトラムを脅迫し、爵位譲渡申請書に無理やり署名をさせた。よって、現継承を無効とすることを求める。これで、間違いないか?」

「間違いありません!」



 アルベルト様は勢いよく立ち上がり、拳を握りしめた。




「証拠もあります! 使用人が録音した音声が──この悪女に、ふさわしい罰を!」

 その姿は、激情に駆られた正義の使徒のつもりなのだろう。

 だが――



「落ち着いて座りなさい。まずはその証拠となる音声を聞こう」

 法務官がぴしゃりと制す。アルベルト様は渋々席に戻るが、目には敵意が燃えていた。やがて、静まり返る法廷に、小型の魔道具が取り出される。そして――

 録音が、再生された。





『お義母様、まだ手は動くかしら?』

『…ク、クロエ、もうひどいことはしないでちょうだい……』

『ひどいこと? 食事を抜いたこと? 窓のない部屋に閉じ込めたこと? サインすれば済む話でしょう』

『そ、それは……爵位はアルベルトに譲るの。私の大切な、息子に……』



 ……声が、本当にそっくり。

 あまりに精巧で、つい息を呑む。思わず聞き入ってしまいそうになるほど、細部まで作り込まれた音声。言葉の抑揚や震えるような声色に至るまで、まるで本物のように響く。

 耳に届いた瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。理性が否定しても、本能が「これは真実だ」と錯覚する。そんな危うさを孕んでいる。



『いいから早くサインしなさいよ』

『いや、叩くのはやめて……』

『サインしないなら、あなたのサインに似せて書くだけよ。でもね、大人しく譲ってくれるなら、あなたの息子に商会を渡してあげるわ。しないなら、彼は一文無し。何も残らない』

『やめて……そんなことになったら、あの子は……わかったわ、言うとおりにする……でも、約束して。商会はアルベルトに……』

『ふふ、いいわ。約束してあげる』

『最後に息子に、会いたいわ……』

『会わせるわけないでしょう? 余計なこと吹き込まれたらたまったもんじゃないわ』





 ――録音が終わる。

 空気が凍りついたような沈黙が、法廷全体を包み込む。


 誰もが言葉を失い、ただその残響だけが耳の奥に残り続けていた。私の隣で、ルシアンすらもわずかに眉をひそめている。だが、それが怒りによるものか、別の感情かは読み取れなかった。

 視線を上げると、アルベルト様がまっすぐにこちらを睨みつけていた。今聞いたものが紛れもない事実であるかのような顔で。

 私は何度も使いを出したわ……あなた、自分で「帰らない」と決めたのでしょう?


 病床の母を拒んだのは他でもない、あなた。なのに、今さら悲劇の主人公を演じるつもり? 記憶まで、自分の都合の良いように書き換えてしまったのかしら。

 私はただ、静かに、しかし確かな怒りをこめて息を吐いた。

 それにしても──



『最後に息子に会いたいわ』



 その一言が、妙に胸に引っかかる。

 お義母様そっくりの声。か細く震えるその響きは、まるで命の灯が消える直前に漏れた、隠しきれなかった本音のようで。

 ……違うとわかっているのに、それでも、私の心を鋭く刺してくる。




「法務官、聞いただろう! こんな酷いことがあるか? ああ、母上……!」

 アルベルト様が感情を抑えきれずに叫ぶ。目元には確かに涙の光が宿っていた。

 ……腹が立つ。心底、腹立たしい。

 何も知らず、何も見ず、それでも自分が正しいと信じ込んで人を責める。真実に向き合うこともせず、ただ他人の作った物語に乗って、感情だけで世界を塗り替えようとする姿が、どうしようもなく癪に障る。




「アルベルト様、その音声……どのような経緯で手に入れられたのですか?」

 怒りを飲み込み、慎重に言葉を選んで問いかける。感情をぶつけるよりも、論理の積み重ねで相手を追い詰めるほうが、今は効果的だと理解していた。



「邸で働いていた元使用人が録音してくれていたんだ。母上付きの者だ。今は、私のタウンハウスで使用人をしている。お前に怯えて、今まで隠していたが……心優しいマリーに心を開いたらしくてな。マリーに打ち明けてくれたらしい。その使用人がいなければ、真実には辿り着けなかった。母の無念が、辛い……」



 母の無念?

 無念を履き違えているのは、貴方のほう。都合のいい証言と録音だけを信じて。

 母の本心に一度でも耳を傾けようとしなかったくせに。



 すると、それまで黙していたルシアンが、重々しく口を開いた。