sideマリー
「アル? こんなところで……何をしてるの?」
窓は開け放たれ、春の光が静かに室内へ差し込んでいた。その光の中に、アルの背中がくっきりと浮かび上がる。
手には筆。
キャンバスには、まだ乾ききらない絵の具が瑞々しく煌めいていた。
私は思わず、息を呑んだ。――その“緊張”は、期待からではなかったけれど。
「おお、マリー! ちょうどよかった。君に……これを見せたかったんだ」
彼は嬉々として振り返り、満面の笑みを浮かべながら、キャンバスをこちらに差し出した。
「これは……まさか、アルが……?」
言葉が喉でつっかえた。いや、何か言わなければという義務感だけで、ようやく声をひねり出した。
目の前にあるのは――絵、らしきもの。
色彩は暴れ、構図は迷子、遠近感は行方不明。何より、描かれている人物が、どこかで見たカエルの人形に似ている気がした。
……どうして彼は、こんな腕で絵を描こうと思ったのかしら?
「ああ、そうだよ。すごいだろう?」
得意げなその顔に、私は思わずまぶたを強く閉じたくなった。
「……すご、い? ええ、本当に……アルにしか描けない絵だわ」
嘘じゃない。だって、こんな絵、アルにしか描けない。
色使いは……斬新。構図は……自由すぎる。
そして筆致は――まるで、自信と不安と情熱と迷いを一つに溶かして床にぶちまけたような。
落ち着かない。というか、むしろ不安になる。
「……自分の才能が、少し……恐ろしくなるよ」
冗談のつもりなんだろうか。いえ、本気ね……
その瞳は、確かに何かを信じていた。
……自分の中に眠る“芸術”の片鱗みたいなものを。
……嘘でしょ。
でも――
「そうね。アルは、絵に集中すべきだわ。今すぐにでも」
「……え?」
アルの戸惑う声が返ってくる。
「アルになら、マティアスにも負けない絵が描けるわ。きっと」
「そうだろうか、いや……そうだ! 私になら、描ける!」
目を見開いたアルの声に、一瞬だけ本物の輝きが宿った。誰かの言葉に背中を押されるのを待っていたかのように。
「ふふ、アル? そうと決まったら、商会のことは、父に任せてみてはどうかしら」
「君の……お父上に?」
「ええ。父には、これまでに築いた人脈と経験があるわ。一時的とはいえ、権利を父に渡すのは不安だと思うけど……ここから立て直すことも――きっとできる」
「本当にいいのだろうか……それは、とても有難いが」
アルの声が微かに震えた。救われたような、解き放たれたような――そんな響きだった。
私は彼のその顔を、静かに見つめる。
「私は、アルに絵を描いてほしいの。魂を削ってでも描いた傑作を、この世界に残してほしいのよ」
手を握り訴える。彼は何かを言いかけて、けれど言葉を呑み込んだ。そして、ただ、深くうなずいた。
「ああ……君の期待に、きっと応えてみせるよ」
ええ、期待しているわ。
そのまま、しばらくこもっていくれることを。
扉が音もなく開かれ、私は一度だけ振り返る。室内に差し込む光は傾き、彼の背に影を落としていた。けれど彼はそれに気づかない――もう、視線はキャンバスの向こうを見ている。
そう、それでいいのよ。
私は廊下へと一歩を踏み出し、静かに扉を閉じた。
「……よろしかったので?」
背後で、使用人が控えめに問う。
ここに来た理由を思えば、当然の疑問ね。
「絵を描くのをやめさせようと思っていたけど、予定を変更するわ。アルには、しばらく絵に専念してもらう。その方が――結果的に、私の利益になるもの」
窓をゆっくり閉じながら、私は微笑む。窓に映る私に顔には冷たくも穏やかな、計算された笑みが浮かぶ。
「下手に動かれて、余計な損害を出されては困るわ。傷が浅いうちに、止血しておかないとね」
「確かにそうでございますね」
思いがけず商会の権利を手に入れた。アルが気付かないように、譲渡の契約書にもサインさせないと。
さあ、忙しくなるわ――商会の情報を根こそぎ集める。
管理体制、保有特許、取引条件、貴族や他商会との繋がり……
全部洗い出して、掌握する。
アルにかけた時間。その価値を、私はきっちり取り戻すわ。――まだ商会の形が残っているうちに。
アルには、絵が売れたことにして、小金でも渡せばいい。
少ないと言われたら「マティアスも最初はそうだった」と言えば、納得するでしょう。欲に火がつき、しばらくこもってくれるのなら、それでいい。
「お嬢様、例の二人が客室で待っております」
「わかったわ」
アルの母親と、クロエの声に酷似した女たち。
その二人を使って、証言を――偽造しなければならない。
話し方の癖、抑揚の乗せ方、息の抜き方。打ち合わせは、入念に。妥協は一切できない。
クロエたちを知らない者には、いくら声が似ているとはいえ、絶対に話し方を真似できない。ならば、二人を知る私が指導しなくてはいけないわ。……アルには無理ね。
ええ、アルにも――騙すつもりで、やらないと。
ここからが、本番。
静かな嵐が、じわじわと輪郭を持ちはじめる。
「さあ、行きましょう」
誰にも悟られてはならない。完全な、精巧な、嘘。
けれど、その嘘が真実を揺るがす。
部屋に入ると、背筋の伸びた姿勢と、どこか人を寄せつけない空気。あれが“声が似ている”女たち。
「……話は聞いております。時間がないので、早速」
クロエの声にそっくりだわ!
いいわ。余計な前置きは必要ない。
私は台本を差し出し、彼女たちの喉に、クロエとアルの母を宿らせる。
一言一言、抑揚、間合い、口元の動かし方まで――染みこませるように。
「……ここは、もう少し上ずらせて。もっと不安げに、でも内側に怒りがある声で」
「こう、かしら?」
返ってきた声に、私は思わず息を呑む。
この人もアルの母親の声に――似ている。
「いいわ。それで続けて」
演技は、最初の一声で決まる。観客が嘘だと気づかないように。
真実よりも真実らしく。
この作戦は、成功させなければならない。
後戻りはできない。私の未来のために。
「アル? こんなところで……何をしてるの?」
窓は開け放たれ、春の光が静かに室内へ差し込んでいた。その光の中に、アルの背中がくっきりと浮かび上がる。
手には筆。
キャンバスには、まだ乾ききらない絵の具が瑞々しく煌めいていた。
私は思わず、息を呑んだ。――その“緊張”は、期待からではなかったけれど。
「おお、マリー! ちょうどよかった。君に……これを見せたかったんだ」
彼は嬉々として振り返り、満面の笑みを浮かべながら、キャンバスをこちらに差し出した。
「これは……まさか、アルが……?」
言葉が喉でつっかえた。いや、何か言わなければという義務感だけで、ようやく声をひねり出した。
目の前にあるのは――絵、らしきもの。
色彩は暴れ、構図は迷子、遠近感は行方不明。何より、描かれている人物が、どこかで見たカエルの人形に似ている気がした。
……どうして彼は、こんな腕で絵を描こうと思ったのかしら?
「ああ、そうだよ。すごいだろう?」
得意げなその顔に、私は思わずまぶたを強く閉じたくなった。
「……すご、い? ええ、本当に……アルにしか描けない絵だわ」
嘘じゃない。だって、こんな絵、アルにしか描けない。
色使いは……斬新。構図は……自由すぎる。
そして筆致は――まるで、自信と不安と情熱と迷いを一つに溶かして床にぶちまけたような。
落ち着かない。というか、むしろ不安になる。
「……自分の才能が、少し……恐ろしくなるよ」
冗談のつもりなんだろうか。いえ、本気ね……
その瞳は、確かに何かを信じていた。
……自分の中に眠る“芸術”の片鱗みたいなものを。
……嘘でしょ。
でも――
「そうね。アルは、絵に集中すべきだわ。今すぐにでも」
「……え?」
アルの戸惑う声が返ってくる。
「アルになら、マティアスにも負けない絵が描けるわ。きっと」
「そうだろうか、いや……そうだ! 私になら、描ける!」
目を見開いたアルの声に、一瞬だけ本物の輝きが宿った。誰かの言葉に背中を押されるのを待っていたかのように。
「ふふ、アル? そうと決まったら、商会のことは、父に任せてみてはどうかしら」
「君の……お父上に?」
「ええ。父には、これまでに築いた人脈と経験があるわ。一時的とはいえ、権利を父に渡すのは不安だと思うけど……ここから立て直すことも――きっとできる」
「本当にいいのだろうか……それは、とても有難いが」
アルの声が微かに震えた。救われたような、解き放たれたような――そんな響きだった。
私は彼のその顔を、静かに見つめる。
「私は、アルに絵を描いてほしいの。魂を削ってでも描いた傑作を、この世界に残してほしいのよ」
手を握り訴える。彼は何かを言いかけて、けれど言葉を呑み込んだ。そして、ただ、深くうなずいた。
「ああ……君の期待に、きっと応えてみせるよ」
ええ、期待しているわ。
そのまま、しばらくこもっていくれることを。
扉が音もなく開かれ、私は一度だけ振り返る。室内に差し込む光は傾き、彼の背に影を落としていた。けれど彼はそれに気づかない――もう、視線はキャンバスの向こうを見ている。
そう、それでいいのよ。
私は廊下へと一歩を踏み出し、静かに扉を閉じた。
「……よろしかったので?」
背後で、使用人が控えめに問う。
ここに来た理由を思えば、当然の疑問ね。
「絵を描くのをやめさせようと思っていたけど、予定を変更するわ。アルには、しばらく絵に専念してもらう。その方が――結果的に、私の利益になるもの」
窓をゆっくり閉じながら、私は微笑む。窓に映る私に顔には冷たくも穏やかな、計算された笑みが浮かぶ。
「下手に動かれて、余計な損害を出されては困るわ。傷が浅いうちに、止血しておかないとね」
「確かにそうでございますね」
思いがけず商会の権利を手に入れた。アルが気付かないように、譲渡の契約書にもサインさせないと。
さあ、忙しくなるわ――商会の情報を根こそぎ集める。
管理体制、保有特許、取引条件、貴族や他商会との繋がり……
全部洗い出して、掌握する。
アルにかけた時間。その価値を、私はきっちり取り戻すわ。――まだ商会の形が残っているうちに。
アルには、絵が売れたことにして、小金でも渡せばいい。
少ないと言われたら「マティアスも最初はそうだった」と言えば、納得するでしょう。欲に火がつき、しばらくこもってくれるのなら、それでいい。
「お嬢様、例の二人が客室で待っております」
「わかったわ」
アルの母親と、クロエの声に酷似した女たち。
その二人を使って、証言を――偽造しなければならない。
話し方の癖、抑揚の乗せ方、息の抜き方。打ち合わせは、入念に。妥協は一切できない。
クロエたちを知らない者には、いくら声が似ているとはいえ、絶対に話し方を真似できない。ならば、二人を知る私が指導しなくてはいけないわ。……アルには無理ね。
ええ、アルにも――騙すつもりで、やらないと。
ここからが、本番。
静かな嵐が、じわじわと輪郭を持ちはじめる。
「さあ、行きましょう」
誰にも悟られてはならない。完全な、精巧な、嘘。
けれど、その嘘が真実を揺るがす。
部屋に入ると、背筋の伸びた姿勢と、どこか人を寄せつけない空気。あれが“声が似ている”女たち。
「……話は聞いております。時間がないので、早速」
クロエの声にそっくりだわ!
いいわ。余計な前置きは必要ない。
私は台本を差し出し、彼女たちの喉に、クロエとアルの母を宿らせる。
一言一言、抑揚、間合い、口元の動かし方まで――染みこませるように。
「……ここは、もう少し上ずらせて。もっと不安げに、でも内側に怒りがある声で」
「こう、かしら?」
返ってきた声に、私は思わず息を呑む。
この人もアルの母親の声に――似ている。
「いいわ。それで続けて」
演技は、最初の一声で決まる。観客が嘘だと気づかないように。
真実よりも真実らしく。
この作戦は、成功させなければならない。
後戻りはできない。私の未来のために。
