それでは、ひとつだけ頂戴いたします

「今日、クロエはどうするんだい?」


 朝の光がやわらかく差し込む応接室で、ルシアンがカップを手に私を見た。

 マティアスの展示会は予想以上の成功を収めた。連日客足が途絶えず、彼の作品は多くの人の心を動かした。その後の対応や後始末に追われていた私たちも、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。

 マティアス自身は、少しの休暇を取って両親を連れて旅行へ行った。ご両親もたくさんの方と対応して疲弊したに違いない。リフレッシュの意味合いもあるのだろう。

「親孝行も僕の仕事のうちさ」と笑っていたが、その目には安堵と誇らしさが滲んでいた。




「今日は、もう決めてあるの。しばらく行っていなかった孤児院へ行くわ」



 答えながら、私は胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。あの場所は、私にとって特別な意味を持つ場所だった。

 貴族社会において慈善活動は単なる名誉ではない。それは、「善き統治者」としての証明であり、時に政治的な評価すら左右する行いだ。特に孤児院や労働者支援に積極的な者は、民からの支持を集める。一方で、それを軽んじる者は「冷酷」「時代遅れ」と烙印を押される。

 お義母様は長年、孤児院の支援を続けてきた。彼女は「子どもは未来よ」と言って、その未来に少しでも光を灯そうとしていた。一方で、アルベルト様――私の元夫はと言えば、

『そんな金があるなら私が有意義に使ってやる。人間は平等じゃない。強者は強者として生き、弱者は弱者として生きる。それがこの国の秩序だ』

 と、まるで時代錯誤の権化のような台詞を平然と言ってのけた。



 一度だけ、彼をお義母様と孤児院に連れて行ったことがある。子どもたちの笑い声が響き渡り、小さな手が私のスカートを掴んで離さなかったあの日。けれど、彼の表情は微動だにしなかった。



『好きにすればいいが、私を巻き込むな』


 そう言い残し、彼は窓の外へと視線を逸らした。まるで、そこにある温もりすら目に入れたくないかのように。



 アルヴェリオ商会でも、孤児院支援のための予算を組んでいたが……彼が全てを白紙に戻しただろう。自ら支援の芽を摘んだ者が、これからどれだけの困難に直面するか。いずれ「手遅れ」という言葉の重みを思い知るはずだ。


 そんな思いを胸に浮かべていると、ルシアンが笑顔で口を開いた。




「そうか、それなら私も一緒に行こう」

「ルシアンも? やんちゃな子供たちがいっぱいよ?」

「はは、私は、特におてんばな女の子の相手は得意なんだ」


 おてんばな女の子――その言い回しに、心のどこかがくすぐったくなった。……まさか、小さい頃の私のことじゃないでしょうね?

 細い目でじっと見返すと、ルシアンはまた可笑しそうに笑って、悪戯っぽく肩をすくめた。



「子供たちが喜びそうなものを持っていくよ。じゃあ、玄関で待ち合わせだ」



 ……まあ、いいけど。彼が一緒なら、きっと今日も穏やかな日になる。



 孤児院に到着すると、工房の扉を開ける音が、陽だまりの中に溶けていった。

 ここは、お義母様が心を込めて作った空間。光が差し込む窓辺には、色とりどりの刺繍糸が並び、春風にやさしく揺れている。子どもたちの小さな手が、布に針を通して、世界にひとつだけの模様を紡いでいた。



「そう、ゆっくりでいいのよ」

 私はそっとしゃがみこみ、一人の少女の背後から声をかけた。



「クロエ様、見て! 上手くできた!」

 少女が広げたクッションカバーには、小さな花の刺繍が。針目はまだ粗いけれど、どの糸も真っすぐに未来へと向かっているようだった。



「とても素敵ね。これなら、きっと貴族の方々にも気に入ってもらえるわ」

 私の言葉に、少女は誇らしげに微笑んだ。

 このクッションは、孤児院の子どもたちが作る「特別な商品」だ。一点物として上流階級の間で密かに人気を集めている。売上はすべて孤児院の運営資金となり、彼らの生活と学びを支えている。

 でも、それだけじゃない。私は思っている。
 支援されるだけの存在ではなく、自らの手で未来を切り拓く力を――彼ら自身に持っていてほしいのだ。

 近くで見ていた少年が、肩をすぼめて言った。



「でも……僕は、不器用だから、こんな細かい作業は無理」

「得意なことは人それぞれよ」



 私は優しく答えた。

 その言葉に応えるように、ルシアンが一つのクッションを差し出す。



「これは、魔法のクッションだよ。触ってごらん」

 少年がそっと指先で押すと、ほんのりとした温もりが伝わった。



「これには冷暖調整の魔法が込められているんだ。さらに、この布に特殊なインクを使うと、線や模様が浮かび上がる」

「すごい……! 僕、絵は得意なんだ!」

「ならば、その力を使えばいい。これは何度でも消して描けるから、失敗しても大丈夫。好きなだけ挑戦してごらん」



 少年の目が、ぱっと輝いた。

 刺繍ができなくても、絵を描けばいい。裁縫が苦手なら、色や形のアイディアを出せばいい。いろんな得意が集まれば、それが未来の可能性になるのだ。

 リサイクル素材を活かした新しいクッション作りにも、子どもたちは積極的に取り組んでいる。古い布を組み合わせて生まれ変わるそれらは、まるで彼ら自身の姿のようだった。

 笑い声が工房に満ちる。誰もが楽しげに、自分にできることに夢中になっていた。

 私はその様子を見守りながら、小さく息をついた。



「きっと、未来はもっと明るくなるわ」

「ああ、そうだな」



 ルシアンが微笑みながら答える。

 私の手の中には、少女が仕上げたばかりのクッションがある。幼い手で縫われた小さな花が、春の陽差しの中でふわりと揺れていた。

 それが新しい希望の蕾であるかのように。