それでは、ひとつだけ頂戴いたします

 扉の前に立ったとき、マティアスは、無意識に息を呑んでいた。

 静まり返った廊下に、年季の入った木製の扉が重々しくそびえている。まるで、それ自体が家主の威厳を体現しているかのようだった。

 執事長が深く頭を垂れ、小さく震える声で告げる。ハンカチで目頭を押さえながら。



「旦那様、奥様。お待ちかねの客人がいらっしゃいました」



 その言葉が静けさを切り裂いた瞬間——扉の奥から、低く、重みのある声が返ってくる。



「通せ」



 短く、それでいて権威を帯びた一言だった。



「はい」



 返事とともに、扉が開かれる。

 私とマティアスは静かに部屋へと足を踏み入れた。中には、品のあるドレスを纏った夫人と、鋭い眼光のまま私たちを見据える男性、ロート子爵がいた。



「まあまあ、マティアスったら……こんなに大きな体で泣いて。泣き虫なのは変わらないのね」



 夫人が椅子から立ち上がり、駆け寄る。彼女の目には、懐かしさと愛しさの涙が浮かんでいた。
 そして、ためらうことなく、マティアスを力強く抱きしめる。



「……お母様……」


 マティアスの肩が震える。押し殺した感情が、少しずつ溢れ出していくのがわかった。



「——あの絵は……すべて、お母様が?」

「ふふ、一番最初に買ったのはお父様よ」

「お父様が?」



 彼の驚いた視線が、厳格そうなロート子爵のもとへ向けられる。ロート子爵の表情は相変わらず硬いままだが……その目の端が、ほんの少し赤い気がした。



「昔、急に絵を数点買ってきたの。土産だと言って私に押し付けてきたけれど、すぐにわかったわ。これはあなたの絵だって」

「……それくらいにしておけ。客人もいる。座って話そう」



 子爵の一声に促され、私たちはテーブルに着席した。



「私はクロード・ロートだ。絵を譲ってほしいと聞いている」

「はい。サンリリー商会のクロエ・ベルトラムと申します。彼の絵を数点……可能であればお譲りいただきたく思いまして。今、彼の絵は常に品薄状態で、多くの人が欲しています」


 一呼吸置いて、子爵は言い放つ。



「そうか……だが、絵は売らん!」


 ‥‥‥はい?

 その瞬間、空気がぴたりと凍りついた。



「もう、あなたったら……約束したじゃありませんか。マティアスの絵が欲しいという人がいれば、譲りましょうって。多くの人に見てもらいたいって」


 夫人が柔らかく諫めるように言葉をかけるが、子爵は頑なだった。


「だが、息子の絵だぞ。優劣などつけられん。お前は、どれを譲るというのだ……!」

「いっそ全部譲ればよいでしょう?」

「な……なにを言っているんだ、だ、だめだ!」


 声を荒げる子爵を前に、マティアスが少しだけ泣き笑いのような表情を浮かべる。その顔に、子爵が気付いた。



「ーーお前が売れたから会おうと決めたわけではない。ただ……少し『勘当する』などと強く言ってしまっただけで……まさかこんなに長く。会いに行く機会も逃し……帰っても来ないし……」

「あなたが、すぐ、かっとなるからよ。マティアスだって、あなたに似て頑固なんだから。あんな言い方をされたら、出ていくのは当たり前でしょう」



 夫人が微笑む。けれど、その目は優しさと同じくらい、切なさに満ちていた。


「お父様は未だに絵をどうやって見つけたのかは言わないのだけれど、マティアスの居場所は、絵を手掛かりにすぐにわかったのよ。ふふ。でも、あなたが一生懸命頑張っていると知って、そっと見守ることにしたの。絵はね、あなたのお姉様とお父様が競うようにして買っていたの。最近では私もよ」

「お姉様も……?」

「ええ。けど、最近はルミエール画廊にあなたの絵が並ばなくなって……もう描けなくなってしまったのではないかと、ずっと心配していたの」


 それで、ルミエール画廊からの紹介で、うちに来たのね。



「っ……お父様たちが絵を買ってくれていたおかげで、僕は生きてこられました」

「いや……我々が買い占めなければ、お前の絵はもっと早く評価されていたかもしれん」



 マティアスが私の方を向く。



「いいえ。僕の絵が世に出たのは、クロエ様が目を止めてくださり、支援してくださったおかげです」



 ロート子爵は、静かに、深く頷いた。



「……断腸の思いだが……よし。息子の恩人に、絵を譲ろう」



 夫人の顔が、ぱっと明るくなる。


 マティアスの絵をたくさんの人に見てもらいたい、というのであれば……



「でしたら、ご提案がございます。展示会を開きませんか? たくさんの方に見ていただいてから、絵を本当に気に入ってくださった方に、お売りいたしましょう」



 私は静かに切り出した。この家族の想いが詰まった絵を、無理に売っていただくのではなく、大切にしてくれる人のもとへ届けたい。そう願うからこそ、踏み込んだ一言だった。

 数秒の沈黙ののち、ロート子爵の声が響いた。



「うむ。それは良い。それであれば、この邸を開放しよう。ここが、マティアス・ロートの展示会場だ!」



 ロート子爵が腕を組みながら頷く。厳めしいその顔に、どこか誇らしげな色が差していた。

 そのとき、マティアスが、ぽつりと問いかける。




「……お父様。僕は、ロートの姓を名乗ってもいいのですか?」



 小さな声だったが、確かに届いた。その言葉に、部屋の空気が一瞬止まる。誰もが息をのんだ。

 父親を見つめるマティアスの目には、長い年月の葛藤と、微かな希望が宿っていた。見捨てられたと思いながらも、それでも心の奥で、父の一言をずっと待っていたのだろう。



「当たり前だ。籍を抜いた覚えなどない。お前は我が子爵家の嫡男だ」


 ロート子爵の声は、優しい父の声だった。迷いも、怒りも、もはやそこにはない。

 マティアスの瞳が見開かれる。



「てっきり……お姉様が継ぐのかと」

 家を継げない自分。疎まれた息子。そう思い込んできたからこそ、家を出たのだろう。

 ロート子爵はふっと鼻を鳴らして言い放つ。



「なぜ嫁に行った姉が継ぐ? 姉の子にも継がせる気はない」



 その言葉に、夫人が目元を押さえて笑みを浮かべる。そして、マティアスの肩が震えた。ようやく、遠ざかっていた光が、彼の胸に届いたのだ。マティアスは涙を拭い、笑った。



「‥‥‥戻って来い。領地経営など、優秀な嫁に任せればよい。あるいは、有能な部下を。私が探し出して見せよう。お前が絵を描きたいのなら、好きなだけ描け。——この言葉が言えなかったことを、何年も悔いていた」

「……ありがとうございます」

「……ああ」


 こうして、不器用すぎる親子は、ようやく互いの想いに触れ、和解を果たした。


 出会った時にもらった絵。



 夕暮れの街並みを描いた風景画。


 建物の窓には温かな明かりが灯っている。けれど、その光が遠いものに見える。まるで、そこに住む人々の温もりが、自分には届かないとでも言うように——。


 ……マティアスが家族を恋しがっていることは、あの絵を見て気付いていた。

 あのとき、彼の絵に心を動かされたのは、きっと……この温もりの瞬間がいつか戻ることを、誰よりも彼自身が切望していたからに違いない。本当によかったわ。