それでは、ひとつだけ頂戴いたします

 sideクロエ



 ルシアンの作った魔道具を頼りに、ずっと行方を追っていた人物の居場所を探し、ついに判明した。彼と顔を合わせたことのある画商に協力をしてもらった。ようやく辿り着いたという安堵とは別に、少しの驚きがあった。
 その住まいは森でも山奥でもなく、街の片隅――古びた路地裏だった。


「ここなのね。てっきり、人嫌いで森の奥深くに隠れ住んでいるのかと思っていたわ」

 小さく息を吐き、呟いた。

 それにしてもーー


 湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。並ぶ家々はどれもくすんだ灰色で、外壁はひび割れ、塗装も剥がれかけている。窓は曇りガラスのように埃を被り、長く開け放たれた形跡はない。まるで時間だけが止まってしまったかのような一角。

 こんな場所で、あの絵が生み出されているなんて――。



「引きこもるにしても、買い物が便利な場所の方がいいだろう。このあたりなら、夜遅くまで開いている飯屋も雑貨屋もある」

 隣を歩くルシアンが、何気ない口調で言う。


「……それも、そうね」

 小さく笑いながら頷き、苔むした木製の扉に手を伸ばした。軽くノックする。

 しかし、返事はない。家の中からも、人の気配は感じられなかった。



「……留守かしら?」

 首をかしげた横で、ルシアンが小さく笑った。



「居留守じゃないか? 任せてくれ」

 肩をすくめ、彼はわざとらしく咳払いをしてから、芝居がかった声で叫ぶ。



「すみませーん! この辺りに魔獣が逃げこんだとの情報がありまして、ご無事でしょうかー!」



 ――ガタンッ!

 家の中から、明らかに慌てた物音が響いた。



「ま、魔獣っ!?」


 ドン、と勢いよく扉が開かれる。現れたのは、ぼさぼさの髪に、くたびれたシャツを着た男だった。驚きと動揺を顔いっぱいに浮かべ、目を見開いてこちらを見つめている。



「ど、どこに!? 大きいの? 空飛ぶタイプ!?  いや、うちの窓はもう限界で……!」

 慌ててまくし立てる男の姿に、思わず申し訳なさそうに眉をひそめた。もう、ルシアンったら。


「あの……申し訳ありません、魔獣の話は、嘘でして……」

 ぺこりと頭を下げると、男は一瞬きょとんとした後、ぽつんと呟いた。



「……う、嘘? なんだ……びっくりした……」


 安堵のあまり、男は額の汗を手の甲でぬぐい、大きく息を吐いた。



「……はは、でもまあ、居留守使った僕も悪いよね。てっきり借金取りかと思ってさ」

「そうだったのですね。突然押しかけてしまって申し訳ありません。でも、どうしてもお話ししたかったのです」


 一歩前に踏み出し、声を落ち着かせ続けた。


「申し遅れました。私、クロエ・ベルトラムと申します。サンリリー商会の者です。マティアス様――ですよね? 実は、あなたの絵のことでお話を伺いたくて」

「……僕の、絵?」


 その言葉に、マティアス様は目を瞬き、呆然としたように繰り返す。


「ファンなんです。あなたの絵を初めて見たとき、胸が熱くなって……どうしても、お会いして直接お礼を言いたかった」


 私の視線に、マティアスの頬がほんのりと染まる。



「そんなふうに言われたの……初めてだな……」

 気恥ずかしそうに笑いながら、彼はわずかに扉を開き、手招きする。



「汚いところだけど、それでもよければ、どうぞ」


 促され、ルシアンとともに静かに家の中へ足を踏み入れた。扉が閉まると、外のざわめきが消え、代わりにしんとした静寂が辺りを包む。

 その室内は、まるで異世界だった。


 狭いながらも壁一面に、びっしりと絵が飾られている。静謐で、どこか幻想的な空気が漂い、色褪せた空間に命を与えていた。

 夕暮れの街並み、静かな湖、風に髪を揺らす見知らぬ少女の横顔――
 どれも、言葉にできない感情を、そっと絵の中に封じ込めていた。絵に宿った誰かの記憶が、見る者の心に語りかけてくるようだった。




「……すごいですね。これはすべて、あなたがお描きになったのですか?」

 私がそう尋ねると、マティアスはわずかに照れたように肩を竦めた。



「ああ、まあね……小さな絵しか売れないからさ。大きなものは、こうして溜め込んでるんだ。それより、どこで、僕の絵を見つけたの?」

「ルミエール画廊で。偶然、目に留まって」

「ああ……なるほど」

 彼は呟きながら、一枚の絵にそっと指を這わせた。乾いた筆致の上を、指先が優しく撫でる。



「絵は独学でしょうか?」

「学生のころまでは習っていたんだよ。そこからは自己流。学費も道具も、何をするにも金がかかるからね」

 ふと、彼の横顔が陰を落とす。けれど、それでも微笑を崩さずに続けた。



「……一応、子爵家の出なんだ。嫡男でね。でも“一生絵を描きたい”と言ったら、即刻勘当さ。いい筆も絵の具も買えないし、借金取りに怯える日々だけど、それでも後悔はないよ。自由に描けるだけで、十分さ」

 私は静かに頷いた。


「そうでしたのね。……でも、マティアス様は、“世の中に認められたい”と思われませんか?」

 その言葉に、彼の手が一瞬止まる。

 けれど、すぐにくすりと笑い、視線を絵に戻した。



「好きな絵が描ければそれでいい。……そう思ってる。でも、やっぱりどこかで、描いた絵をすべて、世の中の人に見てほしいとも思う。望む色を出すための絵の具も、理想の線が引ける筆も欲しい。筆運びのいいキャンバスだって。……結局、僕は、欲深い人間さ」


「欲深いのは……真剣だからですよ」

 隣にいたルシアンが静かに話しかける。穏やかな声に芯がある。


「何かを極めようとすると、人は欲深くなるものです。そして、それは誇るべき“欲”です」

 一瞬驚きに表情を浮かべたマティアスは微笑んだ。静かな、でもどこか嬉しそうな表情だった。

 私は一歩、彼に近づき、真っすぐにその目を見た。



「先ほども申し上げましたが、私はあなたの絵の、心からのファンです。ですから、ご提案をさせていただきたいのです」


 私は、支援と取引の申し出、さらには借金の肩代わりの話を切り出した。

 マティアスの目がわずかに揺れる。



「……もし、僕の絵が売れなかったら?」

 その問いに、私は微笑みを浮かべながら、ためらいなく答える。



「そのときは、私がすべて買い取りますわ」

 彼の瞳が、見開かれる。



「私はあなたの絵が好きなのです。独り占めするのも、悪くないと思っています」

「……一番の口説き文句だな、それは」



 マティアスがくすりと笑う。その笑みに、戸惑いと喜びが混じっていた。



「ありがとう。喜んで、お受けするよ。よろしく頼む」


 柔らかな照明が、彼の頬を淡く染めていた。ふと、彼は思い出したように立ち上がる。



「そうだ、奥の部屋にまだ絵があるんだ。少し持ってくるよ。是非見てほしい」

 そう言い残して彼は奥へと消えていく。ルシアンが軽く肩を竦める。



「全然人見知りじゃなかったな。饒舌だ」

「人見知りではなく……借金取りから逃げていただけだったのね。でも、さすが貴族の血筋。端正な顔立ちをしているわ。装いを整えれば、それなりに見栄えがするわね」

「ああ、絵の売り出し方がひとつ増えたな」



 ふと、視線が一枚の絵に吸い寄せられる。それは、夕暮れの街並みを描いた風景画だった。

 窓に灯る光、金色に染まる街、だが道には誰もいない。

 美しいのに、どこか切ない。まるで、それを見ている誰かが、そこに住む人々の温もりなど、自分には届かないとでも言うような——そんな絵だった。



「気に入ったの? でもね、それ、画商には『寂しすぎる』って言われたよ」


 後ろから響いたマティアスの声に、私は絵を見つめたまま呟いた。



「……私は、この絵、好きです」

「君は変わってるな」

「華やかな絵も好きです。でも……静かな夕暮れ、帰る家がある人々。家の中には、温かな光と家族の団らんがある。でも、誰かにとっては、その光が遠いものに見えることもある……そんな絵」

 マティアスはしばらく黙ったまま絵を見つめ、やがてぽつりと呟いた。



「……そうか、そんなふうに見えるのか」

「感じたままを言っただけです」

 彼はふっと笑い、小さく頷いた。



「……なら、出会いの記念にあげるよ。この絵」

「よろしいのですか?」

「もちろん。受け取ってほしい」

「よかったね、クロエ」


「ええ、嬉しいわ。では、マティアス様の気が変わらぬうちに、契約の話も始めましょう。絵は後でゆっくり見ますわ」

 私の言葉に、マティアスが苦笑しながら席に戻る。


「取引の話なんて、久しくしてなかったから、少し緊張するな」



 寂しげだったこの小さな部屋に、新しい風が吹き込んだような気がした。