それでは、ひとつだけ頂戴いたします

 sideクロエ



「コンラッド様は、お帰りになりましたか?」

「ええ」


 燭台の炎がわずかに揺れ、壁に映る影が長く、歪んでいく。
 部屋の空気は静まり返っていたが、どこかに重く、緊張の余韻が漂っていた。



 コンラッド・ヴェルナー、その名を知らぬ商人は、まずいない。


 アルヴェリオ商会にとっても、いや、この国の商業界全体にとっても、彼の一言は契約書より重い。
 ヴェルナー家は代々、貿易と金融で栄えた一族。生まれながらの貴族ではないが、金で爵位を買ったと噂されるほどの財力を持ち、今や一つの"経済勢力"と呼ぶにふさわしい存在だ。

 その現当主であるコンラッド様もまた、若くして頭角を現し、数多の交渉を制してきた稀代の実業家。


 表向きは貿易業を生業としながらも、裏では融資や情報取引を自在に操り、貴族や官僚たちと深く繋がっている。まさに、金と策略の申し子――そんな男が、今夜、この屋敷を訪れた。アルベルト様への怒りを土産に。



「燭台はともかく、もてなしも碌にできないとは。嘆かわしい」

「まったくね」



 私の唇に、ごくわずかな笑みが浮かぶ。アルベルト様は、勉強ができないわけではない。ただ、致命的に頭が回らない。ほんの少し考えればわかるはずの“もてなしの常識”が、あの男の頭には存在しない。


「エレオノーラ様が小さい頃から、貴族の矜持とは何かを丁寧に説いておられたのに……」

 嘆息するグレゴリーの言葉に、私は黙って頷いた。彼はお義母様の忠臣であり、彼が落胆を隠さぬのも、無理はない。


 コンラッド様は、“時間を割く価値がある者”としか会わない。


 お義母様の息子であり、アルヴェリオ商会の新商会長――アルベルト様に期待していたいうことだろう。だが、それは裏切られた。


 ――冷めきった皿の料理。立ち尽くす給仕たち。好みに合わない手つかずの菓子。
 そして、コンラッド様に礼を尽くせない主。

 見ていなくとも、その光景が手に取るようにわかる。
 客の好みも把握せず、心を砕くこともなく、ただ体裁を整えただけの接待など、あの方の前では無意味だ。


 “アルヴェリオ商会との取引中止”は、すなわち――「お前に用はない」と言っているも同然。

 コンラッド様が邸を出る前にフォローをするべきであった。アルベルト様は、コンラッド様とこれから二度と会うことは叶わないだろう。



 コンラッド様とは、私の商会と直接取引できればよかったが、残念ながら、求められているのは美容関係の商品。うちでは扱っていないため、親しくしている商会と繋ぐことにしたのだ。

 今後はコンラッド様に追随し、離れていく取引相手が続々と出てくるであろう。でもーー取りなすことなど絶対にしない、ご自分の力であがいてみればいいわ。アルベルト様が失敗するたび、取りなし、駆けまわったお義母様の苦労を味わうといい。



「コンラッド様は、愛妻家でいらっしゃるから。今回の離縁話には、随分ご立腹だったわ」

「クロエ様が、実質的に商会を動かしていましたからね。今さらアルベルト様が出て行っても、商会が回らないのは目に見えている。離縁の理由を特に聞かれませんでしたが、何か……察されたのでしょう」

「そうでしょうね。ああ、そういえば――新しい家具にご興味があると仰っていたわ」

「ほう、それは……!」


 グレゴリーの顔が、ぱっと明るくなる。
 商人にとって、コンラッド様の関心を引けるということは、他のどんな褒美にも勝る吉報だ。



「明日、サンリリー商会に足を運ぶと言っていたわ」

「なんと! それはすぐに、商会へ伝えておきましょう」

「ええ。あの方なら、気に入った商品があれば、奥様やご息女のために一式そろえるでしょうね」

「コンラッド様にご注文いただければ、それだけで評判が立ち、注文が殺到します。……忙しくなりますね」

「ふふ。嬉しい悲鳴というものよ」



 アルベルト様の無様な失敗が、思わぬ形で我が商会の追い風となった。
 皮肉なものだが――これもまた、商機というものだ。




「そうだわ、あちらの動きは今、どうなっているかしら?」

「新しい取引相手を求めて動いているようです。さらに……コンラッド様への接触も図っているとか」

「……マリーの差し金、かしら」

「おそらく」



 マリー。商会の一人娘にして、計算高き頭脳。柔らかな物腰と、ふわりと微笑む仕草。そのどれもが、よくできた仮面だ。

 本質は冷静で、精密な秤のように事態を量り、最も合理的な一手を選ぶ女性。多少の失態では眉ひとつ動かさない。ましてや、今回のような“予想できた破綻”などでは、大きな動揺はないだろう。



「新しい顧客に適切な謝罪。素早い関係修復。……対応としては、完璧ね」

「ええ。ただ――実行するのは、アルベルト様ですから」

「まあ、無理でしょうね」


 くす、と笑いが漏れる。どれだけ綿密な計画でも、動かす駒が無能であれば、その盤面は崩れる。



「どれほどサポートをつけても、結果は変わらないわ。マリー様も今頃、アルベルト様の“予想以上の無能さ”に驚いているのではなくて?」


 皮肉のつもりはなかった。ただ、ありのままを述べただけだった。

 まだ結婚していないマリーが、どこまで商会に介入できるかは限られている。正式な後継者でも、婚約者でもない。権限は極めて曖昧だ。

 だが、それでも――あの人なら、歯がゆさにじっと耐えながら、水面下で着々と布石を打っているだろう。


 マリーが、恋に浮かれているアルベルト様と同じ温度なはずはない。アルベルト様の失態すら、どう利用するか考え、その瞬間が訪れたとき、マリーは一切のためらいなく、商会を自らの手に収めるつもりだろう。



 誰にも気づかれないまま、自然に。完璧に。



 ふふ……マリー。ただ、それが間に合うといいですわね。彼が商会を確実に崩してゆくより早く動かなければ、共倒れですわ。



 アルヴェリオ商会――先々代の名を冠した、誇り高き男爵家の商会。お義母様が愛し、命を懸けて守り続けてきた場所。かつての私もまた、この場所を守ると、心から誓った。


 けれど。


 ――その終わりを告げるのは、きっと彼。息子であるアルベルト様。


 それもまた、一つの運命なのかもしれない。