それでは、ひとつだけ頂戴いたします

 sideアルベルト



 結局、クロエの商会に、うちの元従業員が雇われていた。

 本人の希望で志願し、面接も正式に受けたらしいが——どこからどう見ても、引き抜きだ。

 クロエのやり方は表向きは綺麗でも、裏ではしたたかだ。まったく、どこまで腹黒い女だ。

 ……まあ、いい。


 マリーが、その穴を埋めるように、実家から人材を引き抜いてくれたのだから。

 礼儀作法も知識も申し分ない。こちらの指示に反論することなく、言われた仕事を正確にこなす。帳簿の処理も、抜け目なく、私が使った金の穴さえ見事なまでに整えていた。


 ……クロエの商会など。


 新興の商会が、この時代に通用するわけがない。信用も、伝手も、格式もない。貴族が求めるのは、長い歴史と由緒を持つ老舗なのだから。

 あの女が、安易に商会の運営権を引き受けたことを、いずれ後悔する時が来るだろう。





 そして今日——

 我が商会にとって最も重要な取引相手、コンラッド・ヴェルナーとの会食の日を迎えた。

 彼の取り扱うネットワークは広大で、当商会の主力商品のおよそ六割を買い上げてくれている。いわば、商会の屋台骨とも言える存在。

 この会食の成否が、今後の商会の命運を大きく左右すると言っても過言ではない。

 ……にもかかわらず、彼はタウンハウスの扉をくぐるなり、ほんの少し眉をひそめた。



「アルベルト様、お招きいただきありがとうございます。……しかし、タウンハウスとは、少々意外でした」

 落ち着いた声音の裏に、戸惑いがにじんでいる。



「申し訳ありません、コンラッド様。実は現在、郊外に新しい邸宅を建築中でして……仮住まいのようなものでございます」

「なるほど。いえ、構いませんよ。今日はこの日を心待ちにしていたのです」


 コンラッド様は微笑みを浮かべたが、彼の目は室内の調度品をゆっくりと見渡していた。——それが、査定の目であることに気づいたのは、もう少し後のことだ。

 料理が運ばれ、形式通りの挨拶を交わしながら、穏やかに会は進んでいく。

 だがその空気を切り裂くように、ふと出た問いが、場の雰囲気を変えた。



「ところで、クロエ様は……本日はご一緒されないのですか?」

 ……やはり出たか。その話題。



「……実は、クロエとは事情があって離縁いたしまして。今後、商会の全責任は私が担うこととなりました。何かご要望があれば、どうぞ遠慮なく私に直接お申し付けください」

「そうでしたか……それは、実に残念ですね。彼女は非常に、誠実で有能な方でしたのに」


 一瞬、内心で舌打ちした。

 クロエの評価が高いことは知っていたが……。

 マリーを紹介も兼ねて、次期妻となる人物として話題に出そうと思っていたが、この流れでは下手に名前を出すべきではない。

 ……機を見送るしかないな。

「それよりも」とコンラッド様は、ふと表情を変えた。



「この邸にお引越しされたばかりのようですが、以前お贈りした“星霜の燭台”が玄関に見当たりませんでした。どこか、別の場所に飾られているのでしょうか?」

 燭台……?
 記憶の中を手繰る。

 ああ、あれか。少しくすんで、古めかしい銀の燭台。装飾も地味で、だれかが勝手に片付けたのか?



「……あの、もしかすると他の場所に移したか、あるいは……誰かに譲ってしまったかもしれません」

「……友好の証を、他人に?」

 声は静かだった。だがその温度は、確実に下がっていた。



「い、いえ……正確には“貸し出した”ようなものでして。すぐに戻る予定です、もちろん!」


 間が悪かった。空気が重くなる。

 そして——


「ちなみに、本日はどうして紋入りの銀食器が使われていないのです? これは……借り物ですか?」

 その一言で、背筋に氷柱が這うような冷たい感覚が走る。

 銀食器——!

 あれは、使用人が持ち出して……クロエの屋敷にあるはずだ。まさか、こんな場面で問題になるとは。



「……引っ越しの混乱で、今は見当たらなくなっておりまして……」

「なるほど。つまり“紛失”と」

 コンラッド様の顔に、明確な失望の色が浮かぶ。



「——失礼ながら。友好の象徴を失い、格式ある食器も用意されていないというのは、“もてなし”の姿勢に欠けていると感じざるを得ません」

「……っ」

「本来であれば、こうした状況では日程を改めるという選択も取れたはず。にもかかわらず、形ばかりの席を設けたことに、私は強い疑問を抱いております」

 ナプキンを静かに置き、立ち上がる。



「失礼いたします」


 ゆっくりと——けれど、迷いのない足取りで、コンラッド様は去っていった。

 目の前で、商会の命綱とも言える大口の取引相手が、何も言わずに背を向けていく。

 その背中が角を曲がり、視界から完全に消えた瞬間。

 ……まずい。

 喉元を冷たいものがなぞる。ようやく状況の深刻さに気づいた私は、駆けるように商会へと向かった。

 損失を最小限に抑えるため、今すぐ打開策を練らなければならない。


 ーーしかし、コンラッドは私よりも早く商会に現れ、「すべての取引を中止する」とだけ言い残して去っていったという。

 商会の評判はすでに危うい。これ以上の傷は致命的だ。ど、どうする?




 *****



 重い足を引きづるようにマリーが待つタウンハウスへ戻ると、開口一番、私の顔色を見た彼女が心配そうに眉をひそめた。

 事情を話すと、マリーは静かに息を吐き、言った。



「つまり……大口の取引が白紙になったのね」

 私は唇を噛み、苦々しく頷く。



「失敗を挽回するには……どうすればいい? マリー、君の知恵を貸してくれ」

 大切なのは、次の一手。

 マリーは考えるように指を組み、静かに言葉を紡ぐ。



「まずは、噂が広がる前に他の有力な取引相手になりそうな人物を洗い出すこと。彼らに、より好条件での取引を提案するの」

「好条件、か……どの程度?」

「多少の損失を覚悟してでも、"信頼できるパートナー"としての印象を与えることが肝心ね。そして、もし話がまとまりそうなら、噂程度では契約を解除できないよう、抜け目のない契約書を準備しておくべき」


 彼女の声には一切の揺らぎがなかった。状況を冷静に、そして現実的に見ている証拠だ。



「それから、今回の件で手を引いたコンラッド様にも再度、接触して。今は何より、信頼の回復が最優先。時間はかかるけれど、少しでも繋ぎ止めておくべきよ」

 マリーの瞳が、まっすぐに私を見据える。



「商売って、そういうものだから。一歩引いて、二歩進む。柔軟に、でも、大胆に動くことが生き残る鍵よ」

 ——彼女の言葉が胸に染みた。



「……ありがとう、マリー。すぐに動く」



 私は立ち上がった。

 失った信用は、じっとしていては戻らない。 ならばこちらから、すぐに、賢く、動くしかない。