それでは、ひとつだけ頂戴いたします

 sideクロエ


「グレゴリー、面接はすべて終わったかしら?」


 椅子の背に身を預け、指先で書類を軽く弾く。
 執務室に灯る暖炉の火は、静かに揺らめきながら仄かな温もりを広げていた。


「来月の始動に向け、万全の体制を整えております。クロエ様」


 対面に立つグレゴリーが、目を細めて一礼する。
 目尻の皺とは裏腹に、その声音は低く落ち着いていて、いつも通りの冷静さを保っていた。

 彼は優秀な人だ。冷徹なほどに合理的で、幼い頃から目をかけてきたアルベルト様にさえ容赦しない。でも、彼もお義母様と同じように、アルベルト様に最後まで期待し、そして裏切られた人間だった。


 今こうして傍にいてくれるのは、お義母様の願いあってのこと。私を支え、見届けるために。

 商会に残った従業員たちは、皆お義母様への恩義があった。けれど、万が一という時には私と共に動く、と口を揃えて誓ってくれた。その“万が一”は、思ったよりも早く訪れた――。

 古くから働く人々を軽んじるような商会が長く続くはずがない。
 まして、商いとは人と人との信頼の上に成り立つものだ。人を蔑ろにして栄えるなど、土台無理な話。



「ご指示のあった人物は、すべて不合格にしております」

「ええ、それでいいわ。……それにしても、どこで嗅ぎつけたのかしら。マリーの嗅覚は本当に侮れないわね」


 頷きながら、カップに口をつけた。
 紅茶の香りがふんわりと広がり、喉を通る温かさが指先へ、そして胸の奥へと染み渡っていく。
 けれど――心の奥底にこびりついた冷たさまでは、まだ溶かしきれない。


「邸にも、商会にも。……ずっと前から紛れ込んでいたわ、マリーの“目”が」


 吐息のように漏れたその言葉には、自然と棘が滲む。燭台の炎が揺れ、グレゴリーの顔に一瞬だけ淡い光を落とした。彼はその言葉に眉をわずかに動かしながら、黙って頷いた。

 爵位の件も、ばれないよう裏で動かすのにどれだけ骨を折ったことか――。



「……よろしかったのですか? 店舗の権利も、アルベルト様に譲ってしまわれて。取引先も、資材も、すべて奥様とクロエ様が守ってこられたものですのに」

 ふっと笑みが漏れる。

「優秀な人材はもう、手に入ったのですもの。それに――商いっていうのは、守りに入った瞬間から終わるものだわ」


 椅子から立ち上がり、窓の外へと視線を送る。
 夜の帳に包まれた街並み。その静寂の中に、確かな時代のうねりが潜んでいた。

 あの商会で取り扱った食品も、美容も、楽しかったけれど。



「やってみたいことがあるの。心機一転よ」


 夜風が静かに窓を揺らし、カーテンの裾を撫でていく。
 頬をかすめる冷たい空気に、ほんの少しだけ目を細める。


「あの人たちと同じ舞台に立つ必要はないわ」


 商会で磨いた経営の手腕、人を動かす力。
 ――それだけあれば。私にとっては十分すぎる武器だった。



 グレゴリーが、慎重な声音で改めて問いかけた。



「――では、計画通り。インテリア中心の商会ということでよろしいですか?」


 窓の外では、夜風がそっとカーテンを揺らしている。私はその静かな揺らぎに目を落としながら、微笑みを浮かべて頷いた。



「ええ。家具、照明、装飾品、小物……最近では、季節に合わせて室内の雰囲気を変える貴族も少なくないわ。かつては贅沢とされていたことが、いまでは“たしなみ”と呼ばれている。市場は、静かに、でも確実に動いているの。まずは、大きな資金が動く家具から。そこを起点にしましょう」


 グレゴリーは短く頷き、すぐに頭の中で計算を始めたようだった。商会の支配人としての目が、瞬時に鋭くなる。


「現在の流行は、大きなカーブに緻密な彫刻、過剰とも言える装飾が施された、きらびやかで重厚なスタイルが主流です。ご要望に添うとなると、だいぶ方向性を変えることになりますが……」

「ええ、むしろ変えたいの」


 私は机の上に置かれた図案に指を這わせながら、しっかりと視線を上げる。



「これから求められるのは、“威厳”じゃない。“癒し”や“安らぎ”よ。女性たちが、自分のために選ぶインテリア。重く硬いだけのものは、市場に溢れているもの。より軽やかで、繊細で、そして柔らかいもの。曲線を活かし、花や貝殻を模した有機的な装飾――そういった美しさに、心が惹かれる時代が来ているわ」


 言葉を紡ぎながら、頭の中には未来の商会の姿がはっきりと浮かんでいた。そこには、光が差し込むショーウィンドウと、誰かが大切に選んだ家具が並ぶ穏やかな空間。香りのするクッション、薄く色づいたランプシェード、そして手仕事の温かみ。


「明るく、華やかで、それでいてどこか懐かしい。ソフトな色合いを基調にして、果物や草花のモチーフをあしらうの。見るたびに微笑みたくなるような、そんな空間をつくりたいの」


 グレゴリーは静かに考え込んだ後、ふっと笑みを漏らした。


「……室内が、まるで春の庭のようになるかもしれませんね。ご婦人方の目を惹くだけでなく、心をほどくものになる」

「ええ。ゆったりと体を預けられる椅子や、柔らかく包むようなソファ。日々の疲れや緊張を、そっと和らげる存在。家具とは、ただの“物”じゃないの。心を置く場所なのよ」



 言いながら、自分でも驚くほど胸の奥が静かに熱くなっていくのを感じた。この計画は、単なる事業ではない。生き方を提案するものだ――そんな思いがあった。

 私は立ち上がり、窓の外へ視線を向ける。星の瞬きが、まるで祝福のように輝いていた。



「明日、会議を開くわ。手配しているデザイナーと職人たちを集めて。いま動かなければ、波に乗り遅れる」

「かしこまりました。すぐに手配いたします」


 まだ誰も知らない、新しい流れ。新しい価値。アルベルト様、貴方はついてこれるかしら。



 私は静かに、紅茶のカップを受け皿に戻した。軽く触れた磁器の音が、部屋の静けさをやさしく揺らす。

 静寂の中で、決意の音だけが小さく響いた。