sideアルベルト
馬車が軋む音を残して止まり、私は静かに足を地へ下ろした。
冷たい風が頬を撫でた。顔を上げると、目の前にそびえ立つアルヴェリオ商会の建物が視界に広がる。しばらく来ていなかったが、かつての面影はそのまま、堂々たる威容。しかし、どこか無機質で、冷たくも感じた。
母がこの世を去った今、この場所に残る者たちは、何を思っているのだろう。
――案じている者もいるだろう。
だが、安心しろ。この商会は、私が受け継ぐ。
胸の奥に決意を灯し、扉に手をかけた。
重厚な扉が軋む音を立てて開くと、そこには古くからの従業員たちが整然と並んでいた。長年、母のもとで働いてきた者たちだ。
「お待ちしておりました」
迎える言葉とは裏腹に、その顔には張り詰めた緊張と、不安の影が色濃く滲んでいる。
彼らを一瞥し、私は静かに告げた。
「母が亡くなり、動揺している者もいるだろう。だが、安心してくれ。この商会は私が引き継ぐ」
低い、ざわつきが広がる。誰もが顔を見合わせ、戸惑いと困惑が隠しきれない様子だった。
どういうことだ?
大喜びしろとは言わないが、安堵の表情くらい見せてもいいだろう。
そのとき、一人の従業員がためらいながら一歩前に出る。迷いと、それを押し殺すような覚悟が、その表情に浮かんでいた。
「あの……クロエ様は?」
その名が出た瞬間、皆の目線が一気に自分に注がれる。
クロエ――なぜ、今この場でその名前が出る。
私は冷ややかな声で返す。
「……クロエとは離縁した。もうこの商会には関わらない」
再び、ざわめきが強くなる。なぜそこまで動揺する? 商会の運営は、本来男の務めだろ。母もクロエも仮初だ。
心の中で苛立ちを押し殺しながら、支配人へ視線を向ける。
「支配人、付いて来い。今後の方針について話をする」
「……はい」
一拍の沈黙のあと、支配人は小さく頷いた。
*****
商会を継いで、数日が過ぎた。
今まで見ることのなかった帳簿を見ると思っていた以上に――いや、想像の遥か上をいく規模で、利益を出していた。
母もクロエも、私には小遣い程度の金しか渡さなかった。それなのに、この収支。
やはり、私は蚊帳の外だった。なぜ、何も知らされていなかったのだ? 苛立ちと疑念が渦を巻く。
「アル」
柔らかな声が、その思考を断ち切った。顔を上げると、マリーが優美な笑みを浮かべて立っていた。
「商会の様子はどうかしら?」
「……ああ。今まで知らなかったが、思っていた以上に手広くやっていたようだ」
マリーの瞳が好奇心にきらめく。
「へえ。私にも収支報告書を見せてくれる?」
私は軽く肩をすくめて帳簿を差し出した。商家の娘である彼女が興味を持つのは当然だった。ページをめくる彼女の指は迷いがなく、数字を追う目は真剣だ。
「……まあ、ずいぶん儲かっていたのね。知らなかったわ」
ふと、帳簿から目を離し、マリーは小首を傾げる。
「ねえ、アル? こちらの貴族とは、私の実家の商会と縁がないの。紹介してくれない?」
その声音には甘さがあり、どこか策略めいた色も滲んでいたが、私は気にせず笑って頷いた。
「いいさ。いくらでも紹介してやる」
「さすが、アル」
マリーは満足そうに微笑み、帳簿をそっと閉じた。
***
その日は、商会に金の回収に出向いていた。
応接室で待っていると、帳簿を抱えた会計士が、どこか緊張を帯びた面持ちで現れた。
「旦那様。少し……お話がございます」
「なんだ?」
「商会の資金の一部が、不明な用途で使われております。……何かご存知でしょうか?」
私はあっさりと頷いた。
「……ああ、それなら俺が使った。あれだけの売り上げがあるんだ、問題ないだろう? この商会は私のものだ」
当然のことを言ったつもりだった。だが、会計士の表情はさらに陰を落とす。
「旦那様……重々承知とは思いますが、売り上げはそのまま利益にはなりません」
「何?」
「仕入れや支払い、そして――返済。商売とは、そのすべてが噛み合って成立しているのです。ですから……」
「文句があるのか?」
思わず声が低くなる。だが会計士は一歩も引かず、毅然とした声で言い放った。
「申し訳ありませんが、旦那様が自由に商会の金を使ってしまうようであれば、私はこの商会に留まれません」
「……なに?」
思わず言葉が漏れた。顔が歪む。
「このまま、これまでのやり方と変えてしまうのなら、私を含め、数名の者が辞職を願い出ようと考えております」
「辞めてどうする?」
「新しく設立された商会が、経験者を募集しております。私どもは、そちらへ参ります」
「……勝手にしろ。だが、後悔しても再雇用はしないからな!」
怒鳴ったが、会計士は動じなかった。冷静に一礼し、静かに背を向ける。
「それでは、失礼いたします」
静まり返る部屋に、足音が遠ざかる。
会計士の背中が完全に見えなくなってからも、私はしばらく動けずにいた。説明のつかない苛立ちが湧き上がる。
何が不満だ。
金を使っただけだろう。
これほどの利益を上げている商会だ。多少の出費など、誤差の範囲だというのに。それを“辞職”だの“責任”だのと、仰々しく騒ぎ立てるなど。
「……母上とクロエが、甘やかしすぎたんだ」
思わず吐き捨てるように呟く。
その日の夕刻。
支配人が、顔色を変えて執務室に入ってきた。
「旦那様……先ほどの会計士に続き、倉庫管理責任者と、仕入れ担当が――」
「辞めると言い出したのか!」
「……はい」
結託でもしたか!
「まとめて辞めるとは、いい度胸だ。代わりなど、いくらでもいる」
そう言い放ったものの、支配人の表情は晴れない。
「ですが……彼らは皆、長年この商会の中枢を担ってきた者たちです。引き継ぎが不十分なままでは――」
「だからどうした。私の商会だ」
支配人は口を噤んだ。だが、その沈黙が、なぜかひどく癪に障った。
馬車が軋む音を残して止まり、私は静かに足を地へ下ろした。
冷たい風が頬を撫でた。顔を上げると、目の前にそびえ立つアルヴェリオ商会の建物が視界に広がる。しばらく来ていなかったが、かつての面影はそのまま、堂々たる威容。しかし、どこか無機質で、冷たくも感じた。
母がこの世を去った今、この場所に残る者たちは、何を思っているのだろう。
――案じている者もいるだろう。
だが、安心しろ。この商会は、私が受け継ぐ。
胸の奥に決意を灯し、扉に手をかけた。
重厚な扉が軋む音を立てて開くと、そこには古くからの従業員たちが整然と並んでいた。長年、母のもとで働いてきた者たちだ。
「お待ちしておりました」
迎える言葉とは裏腹に、その顔には張り詰めた緊張と、不安の影が色濃く滲んでいる。
彼らを一瞥し、私は静かに告げた。
「母が亡くなり、動揺している者もいるだろう。だが、安心してくれ。この商会は私が引き継ぐ」
低い、ざわつきが広がる。誰もが顔を見合わせ、戸惑いと困惑が隠しきれない様子だった。
どういうことだ?
大喜びしろとは言わないが、安堵の表情くらい見せてもいいだろう。
そのとき、一人の従業員がためらいながら一歩前に出る。迷いと、それを押し殺すような覚悟が、その表情に浮かんでいた。
「あの……クロエ様は?」
その名が出た瞬間、皆の目線が一気に自分に注がれる。
クロエ――なぜ、今この場でその名前が出る。
私は冷ややかな声で返す。
「……クロエとは離縁した。もうこの商会には関わらない」
再び、ざわめきが強くなる。なぜそこまで動揺する? 商会の運営は、本来男の務めだろ。母もクロエも仮初だ。
心の中で苛立ちを押し殺しながら、支配人へ視線を向ける。
「支配人、付いて来い。今後の方針について話をする」
「……はい」
一拍の沈黙のあと、支配人は小さく頷いた。
*****
商会を継いで、数日が過ぎた。
今まで見ることのなかった帳簿を見ると思っていた以上に――いや、想像の遥か上をいく規模で、利益を出していた。
母もクロエも、私には小遣い程度の金しか渡さなかった。それなのに、この収支。
やはり、私は蚊帳の外だった。なぜ、何も知らされていなかったのだ? 苛立ちと疑念が渦を巻く。
「アル」
柔らかな声が、その思考を断ち切った。顔を上げると、マリーが優美な笑みを浮かべて立っていた。
「商会の様子はどうかしら?」
「……ああ。今まで知らなかったが、思っていた以上に手広くやっていたようだ」
マリーの瞳が好奇心にきらめく。
「へえ。私にも収支報告書を見せてくれる?」
私は軽く肩をすくめて帳簿を差し出した。商家の娘である彼女が興味を持つのは当然だった。ページをめくる彼女の指は迷いがなく、数字を追う目は真剣だ。
「……まあ、ずいぶん儲かっていたのね。知らなかったわ」
ふと、帳簿から目を離し、マリーは小首を傾げる。
「ねえ、アル? こちらの貴族とは、私の実家の商会と縁がないの。紹介してくれない?」
その声音には甘さがあり、どこか策略めいた色も滲んでいたが、私は気にせず笑って頷いた。
「いいさ。いくらでも紹介してやる」
「さすが、アル」
マリーは満足そうに微笑み、帳簿をそっと閉じた。
***
その日は、商会に金の回収に出向いていた。
応接室で待っていると、帳簿を抱えた会計士が、どこか緊張を帯びた面持ちで現れた。
「旦那様。少し……お話がございます」
「なんだ?」
「商会の資金の一部が、不明な用途で使われております。……何かご存知でしょうか?」
私はあっさりと頷いた。
「……ああ、それなら俺が使った。あれだけの売り上げがあるんだ、問題ないだろう? この商会は私のものだ」
当然のことを言ったつもりだった。だが、会計士の表情はさらに陰を落とす。
「旦那様……重々承知とは思いますが、売り上げはそのまま利益にはなりません」
「何?」
「仕入れや支払い、そして――返済。商売とは、そのすべてが噛み合って成立しているのです。ですから……」
「文句があるのか?」
思わず声が低くなる。だが会計士は一歩も引かず、毅然とした声で言い放った。
「申し訳ありませんが、旦那様が自由に商会の金を使ってしまうようであれば、私はこの商会に留まれません」
「……なに?」
思わず言葉が漏れた。顔が歪む。
「このまま、これまでのやり方と変えてしまうのなら、私を含め、数名の者が辞職を願い出ようと考えております」
「辞めてどうする?」
「新しく設立された商会が、経験者を募集しております。私どもは、そちらへ参ります」
「……勝手にしろ。だが、後悔しても再雇用はしないからな!」
怒鳴ったが、会計士は動じなかった。冷静に一礼し、静かに背を向ける。
「それでは、失礼いたします」
静まり返る部屋に、足音が遠ざかる。
会計士の背中が完全に見えなくなってからも、私はしばらく動けずにいた。説明のつかない苛立ちが湧き上がる。
何が不満だ。
金を使っただけだろう。
これほどの利益を上げている商会だ。多少の出費など、誤差の範囲だというのに。それを“辞職”だの“責任”だのと、仰々しく騒ぎ立てるなど。
「……母上とクロエが、甘やかしすぎたんだ」
思わず吐き捨てるように呟く。
その日の夕刻。
支配人が、顔色を変えて執務室に入ってきた。
「旦那様……先ほどの会計士に続き、倉庫管理責任者と、仕入れ担当が――」
「辞めると言い出したのか!」
「……はい」
結託でもしたか!
「まとめて辞めるとは、いい度胸だ。代わりなど、いくらでもいる」
そう言い放ったものの、支配人の表情は晴れない。
「ですが……彼らは皆、長年この商会の中枢を担ってきた者たちです。引き継ぎが不十分なままでは――」
「だからどうした。私の商会だ」
支配人は口を噤んだ。だが、その沈黙が、なぜかひどく癪に障った。
