婚約者にバカにされ続けた侯爵令嬢が「ざまぁ」するに至るまで

「エリオット・オリン公爵令息との婚約、ですか」


 ミラジェーン・ブライズ侯爵令嬢は父親の言葉を繰り返した。

 机の向こうで頷くブライズ侯爵の顔は渋く、娘の婚約を喜ぶ貴族のものとは言い難かった。


「お父様、お加減が悪いのでしょうか?」

「いや、体調に問題はない。……ただ、ミラとエリオットくんの婚約の話を、公にしたくないだけだ」

「どういうことでしょう?」


 淡々と問うミラジェーンにブライズ侯爵は首を振った。


「第二王子殿下がな……いや、今はそれはいい。オリン公爵家から正式な申し込みがあった。以前から話は出ていて、その都度かわしていたが、正式となると、格下の我が家では断れない」


 ブライズ侯爵の言葉は次第に小さくなり、やがて途切れた。


「ですが、妥当な婚約ではありませんか」


 ミラジェーンはやはり淡々と続けた。


「王家の政治的右腕であるオリン公爵家のご長男に、王家の金庫番である我が家の長女であるわたくしが嫁ぐというのは妥当だと思いますが」

「そうなんだがなあ」


 ブライズ侯爵は渋い表情のまま、彼の娘の顔を見た。

 そこには何も浮かんでおらず、父親ですら娘が何を考えているのかよく分からなかった。

 たしかに、彼女の言うとおりではあった。

 ブライズ侯爵家については彼女の兄が継ぐ予定であるし、彼女がわずかにだが格上の、政治的に近しい家柄の女主人となることは、悪いことではない。

 むしろ、侯爵家の家長としては喜ぶべきことだ。

 本人が異を唱えないなら、なおのこと。


「私は構いませんわ、お父様」


 ミラジェーンが微笑み、ブライズ侯爵は観念したように息を吐いた。


「すまない。近日中に顔合わせが行われる。日程が確定したら伝えるから、そのつもりでいるように」

「承知いたしました」


 ミラジェーンは頭を下げて書斎を出た。

 ブライズ侯爵は扉が閉まるまで何も言わず、手元の釣書をきゅっと握った。

 


 ミラジェーンが侯爵邸内の執務室に戻ると、兄と母はそろばんを弾いていた。

 東の国から取り入れた品だが、計算機としてとても役に立つ。

 彼女も自分用に大きさ違いを二つ愛用していた。


「お父様の話は婚約についてかしら」


 母親が顔を上げた。


「はい。エリオット・オリン様と婚約が決まったと」

「あなたはそれでいいの?」

「私が断ってよい話でしょうか?」

「ダメってことはないわ」


 ようやく手を止めた母親の顔は、父親同様に渋かった。

 ミラジェーンは静かに首を振った。


「家のお役に立つことです。私に異論はありません」

「頑固だな。殿下も苦労される」


 兄が吹き出したが、ミラジェーンはそちらを見なかった。

 母親も苦笑して、ペンで計算結果を紙に書き付ける。

 ミラジェーンも席に着き、王家から預かっていた婦人会における今年度予算に、改めて目を通し始めた。




 数日後、ミラジェーンはブライズ侯爵と共に馬車で城に向かっていた。


「例の話だが」


 ブライズ侯爵はミラジェーンの斜め上辺りを見ながら口を開いた。


「婚約の話でしょうか」

「ああ。それだがね、来週末にオリン公爵家にお邪魔することになったから」

「承知いたしました。正式な婚約のご挨拶でしょうか?」

「いや、顔合わせ程度だ。ミラはエリオットくんと親しくないだろう?」


 ブライズ侯爵の言うとおり、ミラジェーンはエリオット・オリンとさほど親しい間柄ではない。パーティ等の社交の場で挨拶を交わす程度だ。


「はい、ではそのつもりでお伺いします」

「それと、第二王子殿下のことだが」

「殿下は、この件について何かおっしゃっていましたか?」


 ミラジェーンの低い声に、ブライズ侯爵は首を振って目を逸らした。


「いや、そもそもお伝えしていない」

「……ではなにも問題などないではありませんか」


 うつむいたミラジェーンに、ブライズ侯爵は渋い顔で口を閉じた。


「ミラ、殿下も努力はなさっていたが、なにしろオリン公爵家の手回しが早すぎた」

「……存じておりますわ」


 ミラジェーンはそれ以上何も言わなかった。

 ブライズ侯爵は渋面のまま、「怖いなあ」「でもお伝えしないわけにはいかないし」「怖いものは怖いよなあ」「国王陛下もさっさと認めてしまえばよかったのに」とぼそぼそつぶやき続けていたが、ミラジェーンはそれを聞き流し、窓の外を眺めていた。



 翌週の週末、ミラジェーンは両親と共にオリン公爵家を訪れた。


「よくぞお越しくださいました」


 客間に通されると、オリン公爵夫妻が笑顔で三人を迎え入れた。


「今回は改まった場ではありませんから、どうぞくつろいでください。ミラさんのお話は、ルーシーからも聞いていますよ」

「ありがとうございます。わたくしもルーシー様には大変お世話になっております」


 ルーシーはエリオットの姉で、第一王子と正式に婚約している。

 そのため、ミラジェーンが登城した際に雑談を交わしたり、お茶を共にしたりと親交があった。

 内容は、第一王子とののろけや愚痴が主であったが、それはそれでミラジェーンは楽しんでいたし、雑談と見せかけて城内の情勢や噂話も漏れ聞かされるので彼女はルーシーとは積極的に交流していた。


「エリオット。あなたも挨拶なさいな」

「はい、母上」

 オリン公爵夫妻の後ろから現れたのは、ほっそりとした男性だった。年の頃は十代後半で、ミラジェーンとは同世代だ。

 しかしミラジェーンの知る、勝ち気な表情を見せることの多いルーシーとは違い、少し気弱そうな緊張の面持ちだった。


「ミラジェーン・ブライズ嬢、本日はよくぞお越しくださいました」

「ご丁寧にありがとうございます、エリオット様。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 ミラジェーンが頭を下げると、オリン公爵が笑顔を向けた。

「ミラ嬢の手腕は常々お伺いしております。その若さでお父君と共に、王家と国家、両方の財務管理を担っていらっしゃる。ブライズ卿がうらやましい限りですな」

「とんでもない」


 ブライズ侯爵が笑って肩を竦めた。


「まだまだふつつかな娘でございます。先日も些細な計算ミスで、大騒ぎをしておりまして」

「嫌ですわ、お父様。そんな恥ずかしいこと、将来のお義父様には内緒にしてくださいまし」

「ご謙遜が上手でいらっしゃる」


 そう穏やかに微笑むオリン公爵は国王陛下の右腕として名高い人物であり、同時に人徳の高さでも有名だ。清廉潔白、高名篤実――そんな傑物でありながら、驕ることなくミラジェーンにも親切に接した。

 その隣で、エリオットは困ったように微笑んでいた。


「エリオット様は、どのようなお仕事をなさっているのですか?」

「ぼ、僕は父や姉の手伝いをしたり、母に教わったりしながら、家督を継ぐための修行中の身でして」

「まあ、励んでいらっしゃいますのね」


 ミラジェーンはにこりとエリオットに笑みを向けた。

 エリオットは、安心したようにミラジェーンに微笑みを返した。


「そう言っていただけると、やる気が出ます。常日頃は母と姉にどやされてばかりですので……あなたのように、優しく立ててくださる方がいらして、嬉しく思います。ミラ嬢は……」


 その後は、ミラジェーンとエリオット、そして両家の父母がそれぞれ歓談し、解散となった。


「ミラ嬢は王城でもお仕事をなさっていて、とても努力家でいらっしゃるんですね。ですが、オリン公爵家にいらした暁には、そのような無理なことはなさらず、どうか女性として気楽にお過ごしください」

「お気遣いありがとうございます。なにとぞよろしくお願い申し上げます」


 ミラジェーンは軽く頭を下げ、両親と共にオリン公爵家を後にした。

 馬車に乗り、自宅へと帰る途中、ミラジェーンは無言で外を見ていた。

 窓の外はすっかり夕方で、がたがたと揺れる車内からも、陽が暮れなずむ様子が見える。

 彼女の頭に浮かぶのは明日登城した際に行うべき仕事のことだけだ。

 オリン公爵家に嫁ぐに際し、王城で彼女が任されていた仕事からは手を引かなくてはならなかった。

 政治を担うオリン家に属するものが、金銭面の管理を担うのは不正に繋がりかねないとオリン公爵から告げられたからだ。

 ……彼女をよく知る第二王子であれば、彼女の仕事を「そのような」「無理」「女性として」などとは絶対に言うまいと、ミラジェーンは唇を噛んだ。


「ミラ、エリオットくんはどうだね?」


 ブライズ侯爵が気遣うように声をかけた。


「……悪い方ではないと思いますよ」

「仲良くできそうかい?」

「努力いたします」


 微笑むミラジェーンを見て、ブライズ侯爵夫妻は同じように眉をひそめ、顔を見合わせた。