最強令嬢の過保護は、王子限定です

――ウィリアムが死ぬ。

白い大理石の床に、赤が咲いた。
視界の端で、金糸の刺繍が揺れる。婚約者のウィリアム王子が、胸を押さえて崩れ落ちる――その瞬間、時間が跳ねた。

次の未来では、彼は高い回廊から落ちた。手すりが、ありえない角度で折れ、王子の笑顔が空に溶ける。
さらに次では、祝砲のはずの花火が、王宮の天井で爆ぜて――光が、彼の輪郭を飲み込んだ。

落下。刺傷。爆発。
死が、三拍子で繰り返される。

私の予知は、映像というより「事故報告書の束」だ。原因、経路、被害、再発防止策。脳裏に、冷たい箇条書きが刻まれていく。

けれど、最後に残ったのは報告書ではなかった。

――彼が私を呼ぶ声だ。

「リリアーナ!」

その声が途切れた瞬間、胸の奥が静かに苦しくなった。

私は息を吸い、未来の断片を握りつぶすように拳を強く結んだ。

「この未来だけは、何度でも潰します」

王国の安全保障に関わる案件――そして、私の心臓に直結する案件。
だからこそ、必ず潰す。

馬車の窓から差し込む朝日が、王都の石畳を磨いていた。
今日、王宮では「和平記念式典」が開かれる。国中の貴族が集まり、祝辞を述べ、微笑みを交換し、誰もが「平和」を演じる日。

そして私は、王子ウィリアムの婚約者として、彼の隣に立つ。

他人はそれを「栄誉」と呼ぶけれど、私にとっては「現場」だ。
危険因子が、最も華やかな衣装を着て出没する日。

「……段取りは確認済み。警備導線も、再チェック済み。あとは――」

私は、窓の外へ目を向ける。
馬車の前方、荷車が坂を下ってくる。荷の樽がひとつ、妙に揺れていた。

次の瞬間、予知が走る。

樽が落ちる。
馬が驚く。
馬車が横転し――私の額が床に叩きつけられる。

痛みの予行演習が、脳内で一瞬に完了した。

「右へ。今、右へ寄せて!」

私は御者に向かって大声を張り上げた。と同時に窓を叩く。御者が反射的に手綱を引く。
馬車がわずかに逸れた瞬間、荷車の樽が落下し、石畳を跳ねて、私たちがいたはずの位置を転がっていった。

通行人が悲鳴を上げ、御者が青い顔で私を見る。

「り、リリアーナ様……」

これが「最強令嬢」と呼ばれる理由だ。
未来を見て、危険を潰す。潰して、何事もなかった顔をする。
それを繰り返し、王都の噂話にされる。

「災厄潰しのヴァルモント家の令嬢」

「彼女が通ると、事故が起きない」

「目が合っただけで、未来を知られてしまうらしい」

「彼女の婚約者は常に息が詰まりそうだな……お気の毒に」

最後の噂だけは、訂正したい。
お気の毒なのは、私ではなく、ウィリアムだ。

何しろ彼は――目を離すと怪我をする。

王宮の正門が見えた途端、胸の奥が少しだけ熱を持った。
未来視の残滓ではない。あの声が、現実として聞こえる距離に来たからだ。

「リリアーナ!」

案の定、聞こえた。

ウィリアムは、太陽みたいな笑顔で駆けてきた。淡い金髪が光をはね、青い瞳がまっすぐ私を射抜く。

王子としての品位?
→ある。

礼儀?
→ある。

善性?
→過剰にある。

危機管理能力?
――それだけが、驚くほど欠けている。

「ようこそ!今日の君、すごく綺麗だね」

「光栄です、殿下。ですが、走らないでください」

「え?なんで?」

問い返した瞬間、彼の靴底が敷石の継ぎ目に引っかかった。

私は一歩踏み込み、彼の肩を抱えて支えた。
ウィリアムは私の胸元で止まり、ふわりと花の香りがした。

「うわ、助かった……君、反射神経まで最強なんだ」

「最強なのは反射神経ではなく、予知です」

「予知?え、僕いま、何かしそうだった?」

「しました。転倒です」

「転倒したのは石畳のせいだよ!」

「石畳に責任を押し付けるのは、王子らしくありません。あなたの不注意です」

「えー……」

拗ねた顔が、あまりにも無防備で、私は目を逸らした。
守るべき対象が、攻撃力ゼロの笑顔で近づいてくるのは、割と凶器だ。



廊下へ進むと、今度は絨毯が見えた。
王宮式典用の豪華な赤絨毯――つまり、足を取らせるための最高級トラップ。

私は侍従長に近づき、静かに言った。

「絨毯の端を、留め直してください。すぐに」

「は、はい。しかし……式典の飾り付けが」

「飾り付けより、王子の骨の方が重要です」

侍従長が目を丸くしたが、私の目が真剣なのを察して頷いた。
その背後で、ウィリアムが楽しそうに絨毯の上を歩き出す。

予知が走る。
絨毯の端がめくれ、彼の足が絡み、派手に前転――。

私はウィリアムの腕を引き、絨毯の外へ軽く誘導した。

「殿下、こちらへ」

「え、なんで? この絨毯ふかふかで――」

「罠です」

「罠!?」

「王宮は基本的に罠で溢れています。特に華やかな日は」

「こわっ。君がいないと生きられないじゃん」

それを笑って言うから、心臓が少しだけ早くなる。
生きられない、という言葉は、未来で何度も聞いた気がするから。

控室の前で大きな扉が開いた。
扉番の兵が勢いよく押し――

予知では、扉の縁がウィリアムの指を挟む。
私は扉の前へ半歩出て、ちょうどよい角度で手を差し入れた。
鈍い衝撃が手のひらに走ったが、痛みは我慢できる。

「うわっ、危ない!君、手!」



「大丈夫です。ですが、扉の開閉はゆっくりが基本です」

扉番の兵が青くなり、何度も頭を下げる。
ウィリアムが私の手を取り、心配そうに覗き込む。

「赤くなってる……。医務室に――」

「式典が先です」

「ええ……君って、本当に強いね」

「強くなければ、殿下の隣には立てません」

半分は冗談、半分は本音。
ウィリアムは「えへへ」と笑って、私の手を温めるように握った。

そこで、侍女が紅茶の盆を運んできた。

予知では、ウィリアムが手を振って侍女の視界を遮り、紅茶が私のドレスへ。
私は、ウィリアムの手首を軽く押さえる。

「殿下。歓迎の手振りは、紅茶が置かれてから」

「え、僕、いま何かしようとしてた?」

「しようとしていました。世界を紅茶色に染めるところでした」

「僕、そんなに大規模なことしないよ!?」

「殿下は無自覚なだけです」

侍女が紅茶を置き、安堵の息を吐く。
私は心の中で数える。

――本日の事故回避、すでに三件。まだ午前です。

仕事量が多い。
しかもこれ、式典が始まる前のウォーミングアップに過ぎない。

ウィリアムは紅茶を一口飲み、「おいしい」と無邪気に言った。
その口元を見て、胸の奥がきゅっとなる。

守ると決めた。
何度でも、未来ごと。

式典の開始を告げる鐘が鳴った。
私たちは玉座の間へ向かう。絢爛なホール、笑顔、香水、拍手。
平和の香りに紛れて――危険の匂いが、混ざる。

予知が、ざらりと走った。

ウィリアムが壇上へ上がる。
拍手。
祝辞の紙を広げる――その瞬間、背後の柱から何かが飛ぶ。細い針。
彼の首筋に刺さり、数秒で――。

私は足を止めずに、同時に未来を二つ、三つと滑らせる。
針の角度、飛んでくる位置、射出の高さ。
犯行の手順が、映像の裏側に透けて見える。

「……柱の陰。二列目。右」

呟くように言うと、近衛騎士が一瞬で動いた。
しかし、次の瞬間――予知が、途切れた。

そこだけが、黒い。

未来の一部が、塗りつぶされたみたいに見えない。
私の予知は、通常見えすぎるほど見える。なのに。

見えない影が、いる。

背筋が冷えたが、私は呼吸を止めない。
見えないなら、見えるところから逆算すればいい。

私は床――赤絨毯の下へ意識を落とした。
黒い塗りつぶしが発生する地点。壇上の手前、半歩左。そこに、原因がある。

私は歩幅をわずかに変え、ウィリアムの進路を自然に左へ寄せる。

「殿下。段差がありますので、こちらへ」

「え?段差?どこ?」

「今、私が言った場所です」

「それ、段差じゃなくて、君が誘導したいってことだよね?」

鋭い。
鋭いのに、危険に対しては鈍い。世の中は不公平だ。

壇上へ上がる直前、私はわざと扇子を落とした。
絹が床に滑り落ち、軽い音がする。

「失礼」

屈む。
袖の内から、細い銀の針――護身用のピンを指先で取り出す。
そして、絨毯の縫い目を探り、違和感のある硬い物体に当てた。

小さな黒い石。
呪具だ。予知を曇らせるための。

私は躊躇なく、針を突き立てた。

パキッ――乾いた音。
黒い石に亀裂が走り、瞬間、視界の端が明るくなる。

見える。

途切れていた未来が、一気に流れ込んだ。
柱の陰から放たれる針。射手は侍従の服を着ている。
第二射が来る角度、逃走経路、合図を送る相手の位置まで。

私は立ち上がり、微笑みのまま、声だけを冷たく落とした。

「右の柱、二列目。侍従服の男。針を持っています。拘束を」

近衛が突進し、次いで悲鳴とどよめき。
男が逃げようとした瞬間、別の騎士が回り込み、腕を捻り上げる。
床に落ちた細針が、きらりと光った。

ウィリアムは壇上で一連の騒ぎを見つめ、状況を理解した顔で私を見る。

「……君、また僕を守ったんだね」

「婚約者の業務です」

「業務にしては、命がけだよ」

「殿下も、もう少し命を大事にしてください」

「僕は大事にしてるよ!……たぶん」

「たぶんが付く時点で、危険です」

ウィリアムが困ったように笑い、そして――私の方へ、まっすぐ手を差し伸べた。

式典は一時中断となり、貴族たちはざわめきながらも、最終的には「王家の威信」を守るように拍手で取り繕う。
その中で、ウィリアムは私の手を取り、誰にも聞こえない声で言った。

「君が婚約者でよかった。……明日も一緒にいて」

胸の奥が、予知より先に揺れた。
明日。未来。そこに彼がいるという前提を、彼自身が口にする。

私は、冷静でいるべきだった。最強令嬢として、完璧に。

なのに、口が先に滑った。

「あなたが怪我をすると、私が……困ります」

言った瞬間、自分の頬が熱くなるのが分かった。
困るは、嘘だ。困るどころではない。未来が壊れてしまう。

ウィリアムは一拍遅れて、ふわっと嬉しそうに目を細めた。

「うん。じゃあ、困らせないように気をつける。……でも、君に守られるのも、好きかも」

「殿下」

「なに?」

「その発言は危険です」

「え、恋の危険?」

「……はい」

彼が笑った瞬間、私の予知の端で、砕けた呪具の欠片が誰かの手に拾われる未来がよぎった。
そこだけが――なぜか、黒く塗りつぶされて見えなかった。