壮大の車は、驚くほど静かに、けれど力強く早朝の東京を滑り出した。 助手席に座る私の心臓は、いっそエンジンの振動に紛れてしまえばいいのにと思うほど、激しく鐘を打っている。推しの運転する車の助手席。そんな、全ファンが卒倒するようなシチュエーションに放り込まれ、私の脳内ダイヤグラムはすでに大幅な遅延をきたしていた。
「はい、これ。朝早かったから、まだ食べてないでしょ」
ふいに、信号待ちの合間に彼が差し出してきたのは、小さな紙の袋。中を覗くと、一口サイズに丁寧にカットされた、断面の鮮やかなサンドウィッチが入っていた。 (・・・えっ、嘘でしょ) あのスターの壮大が、私のために朝食を? その気遣いに、言葉にならない感動が胸を支配する。けれど、私は少しだけ言い淀んだ。実は、ある「秘密」があったから。
「・・・ありがとうございます、嬉しいです。でも、実は私、ここに来る前に東京駅が目の前に見えるカフェで、サンドイッチを食べてきちゃったんです」
本当は「推しの前でお腹が鳴るのだけは絶対に避けたい」という、乙女心という名の死活問題があったからなのだが、その事実は伏せたまま。ただ、早めに駅について新幹線を見ながら朝食を済ませていたことを話すと、壮大は意外そうな、それでいて感心したような顔で私を称賛した。
「八時待ち合わせなのに、その前にカフェで一本鉄活を済ませてきたってこと? 流石です、民鉄さん! その徹底した姿勢、プロとして尊敬するわ」
呆れられるかと思いきや、彼はいつものように私の価値観を全力で肯定してくれる。私の「変態的」とも言えるこだわりを、彼はいつも「正解」にしてくれるのだ。
「じゃあ、折角だし俺に食べさせてくれる役ね。ほら、運転してるから。信号が赤に変わった瞬間が『サンドイッチチャンス』だから!」
壮大は素早く私と目を合わせ、いたずらっぽく笑ってまた前を向いた。 ・・・えっ、私が、壮大さんの口に運ぶの? 次に信号が赤になるのが、楽しみなような、逃げ出したいほど恥ずかしいような。
「あ、そうだ。夜は結構、友達がやってるラジオを聴いてるんだけど、朝はやってないから・・・これ、聴いてみて」
彼がコンソールを操作すると、スピーカーから流れてきたのは、聞いたことのない、けれどどこか懐かしくも洗練された洋楽だった。 「ふーん、普段は洋楽を聴いてるんですね」 「そう。俺のルーツみたいなもんかな」
そこからの時間は、音楽とともに彼の過去を旅する時間だった。 中学生時代、青いギターを抱えていた頃の彼。高校時代、仲間と夢を語り合った夜の彼。家族や友人との繋がりを感じさせる曲たちが、彼の歴史を一つずつ紐解いていく。私は、また一つ深く「壮大」という人間を知っていく自分を感じていた。
「ほら、ここでしょ。チャンス到来」
幸せな音の余韻に浸っていると、信号が赤に変わった。 私は震える指先でサンドイッチを一つ摘まみ、彼の口元へ運んだ。パクりとそれを口にした壮大は、微笑みながら美味しそうにそれを飲み込んだ。その瞬間、世界で一番贅沢な給餌係になった気がして、私の顔は火照りっぱなしだった。
さらに、次の信号で止まった時。 「民亜も一個くらいは入るでしょ。お腹空いてなくても、別腹」 壮大は、私の腿の上に載っていた袋からひょいとサンドイッチを摘まむと、あろうことか私の口元へ運んできた。 「え・・・あ」 拒否する暇もなかった。彼の指先が、ほんの一瞬、私の唇に触れた気がして。 甘いマヨネーズの味よりも、その指先の温度だけが脳に焼き付いて離れなかった。
「・・・次に聴いてもらいたいのが、今日の自信作」
スピーカーから流れてきたのは、歌声のない、不思議な、けれど強烈に耳を引く旋律だった。 一定のリズム、低く響く重低音、そして風を切るような音。 「これ・・・鉄道の、走行音?」 「正解。でもただの録音じゃないよ。俺のギターも重ねてる。走行音とギターのコラボレーション、今日のドライブ専用のトラック」
「・・・・・・オタク!」
思わず、素の声が漏れてしまった。そんなの、狂気的な愛がなきゃ作れない。 「え? お互い様だろ!」 壮大は悔しそうに言い返したが、私は確信していた。彼は私と同じ種類の「熱」を持っている。
彼が私を「民鉄」と「民亜」で使い分けるように、私もいつの間にか、敬語と、ふとした瞬間に漏れる敬語のようなタメ語が混ざり合うようになっていた。二人の距離。この車内の湿度。 まさか、日本を代表するロックボーカリストに、オタク扱いをしてしまう日が来るなんて。
やがて車は房総の山あいを抜け、一面の黄色い世界へと辿り着いた。 いすみ鉄道、国吉駅付近。視界を埋め尽くす菜の花の絨毯。
「・・・着いたよ。ほら、もうすぐ『本命』が来る時間だ」
車を降り、カメラを構える。私の隣で、壮大は自分のスマホを取り出すこともなく、ただ静かに私を見つめていた。 遠くから聞こえてくる、キハの重厚な警笛。 ファインダー越しに、黄色い海を泳ぐようにして古い気動車が姿を現す。 シャッターを切る私の指。集中して、周りの音が消えていく。
けれど、その私の真剣な横顔を、彼は菜の花よりも愛おしそうな、眩しそうな瞳で見つめていた。
「・・・綺麗だね、民亜」
彼が言ったのは、列車の話なのか、それとも。 春の風が、二人の間に菜の花の香りと、言葉にならない予感を運んできた。
「はい、これ。朝早かったから、まだ食べてないでしょ」
ふいに、信号待ちの合間に彼が差し出してきたのは、小さな紙の袋。中を覗くと、一口サイズに丁寧にカットされた、断面の鮮やかなサンドウィッチが入っていた。 (・・・えっ、嘘でしょ) あのスターの壮大が、私のために朝食を? その気遣いに、言葉にならない感動が胸を支配する。けれど、私は少しだけ言い淀んだ。実は、ある「秘密」があったから。
「・・・ありがとうございます、嬉しいです。でも、実は私、ここに来る前に東京駅が目の前に見えるカフェで、サンドイッチを食べてきちゃったんです」
本当は「推しの前でお腹が鳴るのだけは絶対に避けたい」という、乙女心という名の死活問題があったからなのだが、その事実は伏せたまま。ただ、早めに駅について新幹線を見ながら朝食を済ませていたことを話すと、壮大は意外そうな、それでいて感心したような顔で私を称賛した。
「八時待ち合わせなのに、その前にカフェで一本鉄活を済ませてきたってこと? 流石です、民鉄さん! その徹底した姿勢、プロとして尊敬するわ」
呆れられるかと思いきや、彼はいつものように私の価値観を全力で肯定してくれる。私の「変態的」とも言えるこだわりを、彼はいつも「正解」にしてくれるのだ。
「じゃあ、折角だし俺に食べさせてくれる役ね。ほら、運転してるから。信号が赤に変わった瞬間が『サンドイッチチャンス』だから!」
壮大は素早く私と目を合わせ、いたずらっぽく笑ってまた前を向いた。 ・・・えっ、私が、壮大さんの口に運ぶの? 次に信号が赤になるのが、楽しみなような、逃げ出したいほど恥ずかしいような。
「あ、そうだ。夜は結構、友達がやってるラジオを聴いてるんだけど、朝はやってないから・・・これ、聴いてみて」
彼がコンソールを操作すると、スピーカーから流れてきたのは、聞いたことのない、けれどどこか懐かしくも洗練された洋楽だった。 「ふーん、普段は洋楽を聴いてるんですね」 「そう。俺のルーツみたいなもんかな」
そこからの時間は、音楽とともに彼の過去を旅する時間だった。 中学生時代、青いギターを抱えていた頃の彼。高校時代、仲間と夢を語り合った夜の彼。家族や友人との繋がりを感じさせる曲たちが、彼の歴史を一つずつ紐解いていく。私は、また一つ深く「壮大」という人間を知っていく自分を感じていた。
「ほら、ここでしょ。チャンス到来」
幸せな音の余韻に浸っていると、信号が赤に変わった。 私は震える指先でサンドイッチを一つ摘まみ、彼の口元へ運んだ。パクりとそれを口にした壮大は、微笑みながら美味しそうにそれを飲み込んだ。その瞬間、世界で一番贅沢な給餌係になった気がして、私の顔は火照りっぱなしだった。
さらに、次の信号で止まった時。 「民亜も一個くらいは入るでしょ。お腹空いてなくても、別腹」 壮大は、私の腿の上に載っていた袋からひょいとサンドイッチを摘まむと、あろうことか私の口元へ運んできた。 「え・・・あ」 拒否する暇もなかった。彼の指先が、ほんの一瞬、私の唇に触れた気がして。 甘いマヨネーズの味よりも、その指先の温度だけが脳に焼き付いて離れなかった。
「・・・次に聴いてもらいたいのが、今日の自信作」
スピーカーから流れてきたのは、歌声のない、不思議な、けれど強烈に耳を引く旋律だった。 一定のリズム、低く響く重低音、そして風を切るような音。 「これ・・・鉄道の、走行音?」 「正解。でもただの録音じゃないよ。俺のギターも重ねてる。走行音とギターのコラボレーション、今日のドライブ専用のトラック」
「・・・・・・オタク!」
思わず、素の声が漏れてしまった。そんなの、狂気的な愛がなきゃ作れない。 「え? お互い様だろ!」 壮大は悔しそうに言い返したが、私は確信していた。彼は私と同じ種類の「熱」を持っている。
彼が私を「民鉄」と「民亜」で使い分けるように、私もいつの間にか、敬語と、ふとした瞬間に漏れる敬語のようなタメ語が混ざり合うようになっていた。二人の距離。この車内の湿度。 まさか、日本を代表するロックボーカリストに、オタク扱いをしてしまう日が来るなんて。
やがて車は房総の山あいを抜け、一面の黄色い世界へと辿り着いた。 いすみ鉄道、国吉駅付近。視界を埋め尽くす菜の花の絨毯。
「・・・着いたよ。ほら、もうすぐ『本命』が来る時間だ」
車を降り、カメラを構える。私の隣で、壮大は自分のスマホを取り出すこともなく、ただ静かに私を見つめていた。 遠くから聞こえてくる、キハの重厚な警笛。 ファインダー越しに、黄色い海を泳ぐようにして古い気動車が姿を現す。 シャッターを切る私の指。集中して、周りの音が消えていく。
けれど、その私の真剣な横顔を、彼は菜の花よりも愛おしそうな、眩しそうな瞳で見つめていた。
「・・・綺麗だね、民亜」
彼が言ったのは、列車の話なのか、それとも。 春の風が、二人の間に菜の花の香りと、言葉にならない予感を運んできた。
