底辺乗り物オタクの私、推しに見つかりました―推しの推し活が、溺愛すぎる

羽田空港の出発ロビーは、旅立ちを待つ人々の期待と、機能美の結晶である無機質な静寂が混ざり合う、不思議な聖域だ。 私はこの場所が好きだ。展望デッキから滑走路を見渡せば、巨大な機体が重力を振り切り、空へと溶けていく。その様は、まさに計算し尽くされた「表現」そのものであり、私の脳はいつもその美しさに心地よい刺激を受けていた。
「壮大さんこそ。さっきから滑走路の動きを完璧に把握して、まるでもうコックピットにいるみたいですよ」
私は隣を歩く彼に微笑みかけた。壮大は今日も帽子を深く被り、周囲の視線を器用に避けていた。彼の中に宿る圧倒的なオーラは、たとえ変装していても完全に消えることはない。私はその「表現者」としての彼を誰よりも尊敬し、そんな彼が選ぶ言葉や仕草から生まれるすべてを信じていた。
けれど、その完璧な調和は、あまりにも唐突に、そして暴力的に破られた。
「ちょっとお話、よろしいですか?」
粘りつくような、湿り気を帯びた低い声。 背後から、あるいは柱の陰から、音もなく現れた数人の男たち。彼らは流れるような動きで私たちの進路を塞ぎ、壁のように立ちはだかった。 一瞬で空気が凍りつく。男たちの手には、無機質な光を放つICレコーダー。そして、鋭いレンズをこちらに向ける、プロ仕様の大きなカメラ。
「いや、別の芸能人を待ち伏せていたら、SOUDAIさんが女性と歩いているのを見かけたもので。慌ててスケジュールを確認したら、広島のライブは二日後ですよね?」
取材陣の言葉には、確信犯的な棘があった。急遽決まった「1825(いはにご)」の代打出演まで、彼らはすでに把握していたのだ。
「二日も前から前乗りですか? 女性とご一緒で、楽しそうですね」
一瞬、思考が白く染まった。一日前なら「仕事の前日入り」という建前も立つ。けれど、二日前となると話は別だ。どうしよう。私の存在が、壮大の築き上げてきたものを壊してしまうのではないか。足がすくみ、声が出ない私を救ったのは、隣に立つ男の、拍子抜けするほど軽やかな声だった。
「あ、バレちゃいました? でも、遊びじゃないんですよ。今日はまずここで撮影、続いて桃太郎空港でも撮影なんです。僕、一応『空の王子』やらせてもらってるんで」
壮大は淀みなく、それでいて確かな説得力を持って言葉を紡いだ。
「明日は広島空港で撮影の予定です。うちのマネージャーが三組兼任してて手が回らなくて、今回のライブは急遽だったから、撮影スタッフの彼女と二人で先に入ることになったんですよ」
彼は私を「撮影関係者」という完璧なシールドの内側に引き入れた。プロの取材陣を相手に、彼は一歩も引かず、むしろその状況さえも自分の「役割」の一部として演じきってみせたのだ。

「それじゃ、撮影があるんで。お疲れ様」
壮大さんはいつもの不敵な笑みを浮かべたまま、取材陣をさらりとかわした。粘りついていた男たちの視線が、彼の圧倒的な説得力に押し戻されていく。
私たちは再び、無機質なターミナルの通路を歩き出した。壮大さんの足取りは以前と変わらず、隣を歩く私への気遣いに満ちている。けれど、私の心臓はいまだに警笛を鳴らし続けていた。
(……よかった。これで、壮大さんのキャリアに傷をつけずに済んだ)
「既婚」という事実、そして私が彼の「妻」であるという真実が暴かれなかったことへの安堵。それは偽りのない本心だった。彼が築き上げてきた「空の王子様」という聖域を守るためには、この嘘は必要不可欠な防波堤なのだ。
けれど、同時に、言葉にできないほど重く、複雑な感情が澱のように胸の底へ沈んでいく。
今の私は、彼にとって「撮り鉄仲間の民鉄」であり、「公式カメラマンの民亜」だ。けれど、戸籍の上で、そしてこの命を懸けて愛し合っているはずの「妻」としての居場所は、あの数分間の攻防の中に、どこにも存在していなかった。
公認の関係者という響きに喜んでいた自分は、どこへ行ったのだろう。 「遊びじゃない」と彼が断言した瞬間、私の薬指にあるはずの透明な指輪が、きつく、冷たく食い込んだような気がした。
壮大さんは前を向いたまま、私の震える指先に、誰にも見えない角度で一瞬だけ自分の手を重ねた。
「……怖かったな。大丈夫か、民亜」
その優しすぎる声に、私はうまく笑えただろうか。 守られている安心感と、隠されている寂しさ。二つの感情が、行き先を失った分岐器(ポイント)の上で、激しく火花を散らしていた。
「でもさっ、『関係者』にしておいたオレ、賢いだろ!」
彼は全く焦っていなかった。むしろ、私の動揺を包み込むような余裕さえあった。その自由奔放な強さに、私の胸は別の意味で激しく鼓動を打ち始めていた。

岡山桃太郎空港に降り立つと、そこには私が普段親しんでいる鉄路の風とは違う、乾いた空の風が吹いていた。 私はあまり飛行機という移動手段を使わない。けれど、壮大が案内してくれるままに歩くターミナルは、まるで映画のセットのように輝いて見えた。
「壮大さん、次はあそこの光が差している場所で撮りましょう」
私はカメラを構え、彼の姿をレンズに収める。 「空の王子様」としての彼の記録を、私は一瞬も逃さずに刻んでいく。ファインダー越しに見る彼は、先ほど羽田で記者を煙に巻いたときとは違い、どこか遠くを見つめるような、澄んだ瞳をしていた。
私は、自分が影響を受けてきた素晴らしい表現の数々を思い出す。その美意識を吸収し、糧としてきた私の思考から生まれるこの写真たちが、彼の力になると信じて。大分の豊かな自然の中で育まれた私の感性が、今、彼の姿を最高の一枚へと昇華させていく。撮影の合間、壮大は何度も私を振り返り、優しく目を細めた。その視線に触れるたび、私の中にある「自分」という存在が、より確かなものとして形作られていくのを感じた。
「本と一緒にいると、なんだか空気が柔らかくなるな」
ふいに壮大が零した言葉に、私はシャッターを切る手を止めた。 「・・・それは、私が壮大さんの表現を尊敬しているからですよ」 「そっか。光栄だな」 そう言って笑う彼の横顔を、私は一生忘れないだろうと思った。
広島に移動した私たちは、街の鼓動を肌で感じるために外へ出た。 私の目的地は、今まさに変革の真っ只中にある広島駅周辺だ。
「見てください、壮大さん。あそこを、かつては路面電車が走っていたんです」
広島電鉄の旧ルート。かつては人々の日常を運んでいた鉄路が、新ルートへの移行に伴い、静かにその役目を終えようとしていた。 私はこれまで何度も「廃線」を訪ねてきた。けれど、その多くは私が生まれる前の、セピア色の写真の中にしか存在しない物語だった。 しかし、今は違う。
「前回来たときは、まだここに電車の音が響いていたのに・・・」
自分が確かに知っている風景が、目の前で「過去」へと形を変えていく。廃線前と、廃線後。その両方をこの目で見届け、歩くことができるという、贅沢で、そしてどこか切ない体験。 私は、アスファルトに残るかすかな軌道の跡をなぞるように歩いた。
「本は本当に、こういう時いい顔をするな。大分でも、そうやって地面の記憶を探してたのか?」 「そうかもしれません。両親や祖父母から、土地の記憶を大切にするように言われて育ちましたから」
壮大は私の言葉を、深い理解を持って受け止めてくれた。 私たちは、新しく生まれ変わる広島駅の2階、路面電車が空へと羽ばたくように乗り入れる予定の場所を見上げた。未来へと続く軌道と、消えゆく過去の記憶。その両方を抱きしめながら、私たちは今日、いーーーーっぱい歩いた。
心地よい疲労が、ずっしりと体に蓄積されていた。 ホテルの部屋に戻る頃には、私の思考は微睡みの境界線にいた。
ふと気づくと、ソファーに座っていた壮大が、私の肩に頭を預けていた。新潟のあの夜と同じだ。規則正しい寝息。ステージの上で見せる圧倒的な「SOUDAI」ではなく、ただの、疲れ果てた一人の青年としての壮大がそこにいた。
「壮大さん・・・?」
呼んでみたけれど、返事はない。彼の深い眠りを妨げるのが怖くて、私は石像のように固まった。動けないまま、彼の髪から香るかすかなシャンプーの匂いを感じているうちに、私の意識もゆっくりと、眠りの海へと沈んでいった。
・・・ふわり。
夢の中で、私は広電の車両に乗っていた。電車はゆっくりと坂を登り、駅の2階へと滑り込んでいく。空へ続く軌道。その幻想的な光景の中で、誰かに優しく抱き上げられる感覚があった。
「・・・ん」
薄く目を開けると、視界が揺れていた。 ソファーで寝入っていたはずの私を、壮大が抱き上げ、ベッドへと運んでいたのだ。 朝の光がカーテンの隙間から差し込み、彼のシルエットを逆光の中に浮かび上がらせている。驚きで声が出ない。彼は私を丁寧にベッドに横たえると、毛布をそっと肩まで掛けた。
これで終わりだと思った。けれど、壮大はそのまま、当然のような顔をして私の隣に潜り込んできたのだ。
「・・・おやすみ、民亜」
低い、まだ夢の続きにいるような声。 彼はそのまま、秒速で再び眠りに落ちてしまった。 ベッドの中で、私の心臓は爆発しそうなほど激しく打ち鳴らされた。
「もー・・・! ドキドキだけさせて・・・!」
窓の外では、広島の街が新しい一日を始めようとしていた。 けれど、この部屋の中だけは、まだ夜の名残と、二人だけの特別な時間が静かに流れていた。 私は、隣で眠る壮大の体温を感じながらゆっくり再び目を閉じた。