底辺乗り物オタクの私、推しに見つかりました―推しの推し活が、溺愛すぎる

 二〇二六年、四月一日の朝。  カーテンの隙間から差し込む春の光が、私のスマートフォンの画面を白く飛ばしていた。  時刻は午前十時を回ったところ。深夜まで及ぶことの多い音楽業界に身を置く「1825」のSOUDAIからすれば、今はまだ深い眠りの中にいるはずの時間帯だ。それなのに、枕元に置いた端末が、見慣れない挙動を見せていた。
 LINEの通知音ではない。重低音を響かせながら震える、確かな「着信」の合図。  画面には、設定した覚えのない、けれど見間違えるはずのない三文字が表示されている。
(・・・壮大さん!?)
 慌てて飛び起き、心臓の鼓動を落ち着かせる暇もなく通話ボタンをスライドさせた。不規則な生活を送っているはずの彼からの、珍しすぎる午前中の電話。何かトラブルでもあったのか、あるいは急を要する事態なのか。
「も、もしもし! 壮大さん、どうしたんですか?」 『・・・来た。民亜、来たんだよ!』
 電話の向こう側で、壮大の声が震えていた。いつもステージで聴かせるクールな歌声とは違う、上ずった少年のあどけなさが混じった声。
『ドクターイエローだ。今、俺の目の前をドクターイエローが通り過ぎていった・・・!』
「ええっ!? 何を言ってるんですか! 東海道新幹線では、去年の今頃に引退したはずですよ。西日本のT5編成だって、そんなに簡単に遭遇できるものじゃ・・・。今、どこにいるんですか?」
『ビジネス山手線だよ。・・・今、ビジネス山手線のホームに停まってる!』
「び・・・ビジネス山手線?」
 その言葉を聴いた瞬間、私の脳内にある鉄道データベースが高速で検索を開始した。  ビジネス山手線。それは、国が運営する貨物やビジネス便を中心とした、山手線に並走する謎多きバイパス路線だ。運営が国ということもあり、鉄道ファンの間では「国鉄の復活か」とアツイ視線が注がれている、今もっとも旬な(そして情報の少ない)聖地。  駅名も分かりやすく、かつ大胆だ。東京駅は「山東京駅」、渋谷駅は「山渋谷駅」。手を抜いていると言ってはいけない。あくまで機能性と識別を重視した結果、そうなったのだ・・・きっと。
「壮大さん、山手線ですよ? 狭軌のビジネス山手線に、標準軌の新幹線が入るわけないじゃないですか! 黄色い貨物列車か何かを見間違えたんじゃ・・・」
『民亜、いいか。山手線は山手線。ビジネス山手線は、ビジネス山手線なんだよ! 東海を引退したドクターイエローが、足回りを改造してビジネス山手線で再就職するって、そんな噂があっただろ? まさか本当に動いてるなんて・・・』
 確かに、引退した車両が他路線へ譲渡され、生まれ変わることは珍しくない。けれど、あのドクターイエローが? 在来線の規格に合わせて改造され、この都心の貨物線を走っているということ?
『今日はこのまま「山品川駅」に停車するらしい。・・・民亜、ドクターイエローだよ!』
「あ、会いたいです! 今日、たまたまお休みなんです! 今すぐ行きます!」
『よし、待ってる。できれば午前中までには来てほしいんだけど・・・』
「全然余裕です! すぐに支度して飛び乗ります!」
 私は、ドクターイエローという存在にはまだ一度も会えたことがなかった。遭遇できる確率は極めて低く、まさに「幸せの黄色い新幹線」と呼ばれる所以だ。それが今、この二〇二六年の東京で、よりによってビジネス山手線というマニアックな路線で私を待っている。
 メイクもそこそこに、一眼レフを鞄に放り込んで家を飛び出した。  山手線の喧騒を横目に、私は「山品川駅」へと急ぐ。頭の中は、あの鮮やかな黄色い車体が、都心のビル群をバックに佇む光景でいっぱいだった。
 汗をかきながら「山品川駅」の指定された場所に辿り着くと、そこにはいつものようにキャップを深く被った壮大が、柱にもたれて立っていた。けれど、周りを見渡しても、あの黄色い巨体はどこにも見当たらない。
「あ、あれ・・・? 壮大さん、ドクターイエローは? 検査終わって行っちゃいましたか?」
 息を切らして尋ねる私を見て、壮大の口角がゆっくりと、不敵に上がった。そして、堪えきれないといった風に、手のひらで顔を覆った。
「民亜、お前・・・今日が何の日か、忘れてたろ」 「何の日・・・って、四月一日ですけど・・・。あ」
 壮大が、肩を揺らして笑い出した。 「エイプリルフールだよ! ごめんな、ドクターイエローなんて来るわけないだろ、山手線に!」
「・・・・・・っ、やられた・・・!!」
 私はその場にへたり込みそうになった。普段なら、こんな子供騙しの嘘には引っかからない自信がある。でも、いいわけをさせてほしい。今の鉄道界において、ビジネス山手線はまだ解明されていない謎だらけの路線なのだ。壮大の「引退車両の再就職」という、いかにも鉄オタが好みそうな理論構築に、私の分析回路が完全にオーバーヒートさせられていた。
「『山手線にドクターイエローって』・・・ぷぷっ! お前、電話越しに本気で驚いてたもんな!」
「・・・壮大さんが、山手線とビジネス山手線は違うって言い張るからですよ! もう、信じられない!」
「ごめんごめん。でもさ、嘘は午前中までっていうルールも聞いたことあるから、そこはちゃんと守ったよ。今、十一時五十分」
「へんなとこ、律儀に守られても困ります!」
 私が頬を膨らませて抗議すると、壮大は笑いを含んだ瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「そんなに怒るなよ。・・・何、怒った? せっかくこうして、予定になかったのに俺に会えたのに?」
「・・・・・・」
 ずるい。  推しという生き物がずるいのか、この壮大という男がずるいのか。  ドクターイエローはいなかった。けれど、その嘘のおかげで、私は今日、予定になかった「壮大さんと過ごす休日」を手に入れてしまったのだ。
「・・・怒ってませんけど。ただ、期待した分だけ、カメラのメモリーカードが泣いてます」
「わかった、わかった。埋め合わせに、うまい店でランチ奢るよ。それで勘弁して」
 そう言って歩き出す彼の背中を見上げながら、私はスマホを握りしめた。  エイプリルフール。  それが、壮大からの「初めての電話」を記録した記念日になった。
 ビジネス山手線の謎よりも、目の前のこの人の心の内の方が、よっぽど解明するのが難しそうだと、私は冷めない鼓動を感じながら思った。

 エイプリルフールの嘘で呼び出され、ドクターイエローが来ないことに絶望したはずなのに。気づけば私は、推しである壮大と並んで歩いていた。  まだお昼前。休日を丸ごと推しに捧げる贅沢。夢みたいだ。いや、さっきまで嘘をつかれていたのだから、これもまだ「嘘」の延長線上にあるのかもしれない。
「友達がやってるスパイス料理の店があるんだけど、そこでいい?」
 壮大の質問は、いつも答えが決まっている。けれど、その強引さが今日はなぜか心地よい。 「・・・はい。スパイス、大好きです」 「よかった。あそこ、気楽に入れる店なんだけど、奥に一室だけ個室があるんだよ。面白いだろ? 予約しといたから」
 ・・・予約。私が「行く」と返事をする前から、彼はもう動いていたのだ。  ふと、頭をよぎる。スパイス料理は香りが強いし、パクチーや独特の刺激が苦手な女性も多いはずだ。壮大は、相手の好みを確かめる前に自分の行きつけに連れて行くタイプなのだろうか。それとも、普段から女性を案内し慣れているから、ある程度の「確信」を持ってエスコートしているのだろうか。
(普段、どんな女性と食事してるんだろう・・・)
 考え始めると、胸の奥がチリチリと焼けるように痛む。いけない、よそう。私はあくまで「民鉄チャンネル」の運営者として、彼に鉄道を教える立場なのだから。
 案内された店は、ビジネス街の喧騒から少し離れた路地裏にあった。  コンクリート打ちっぱなしの壁に、原色のペンキで描かれた不思議なアート。スパイス料理店というよりは、多国籍な空気が漂う隠れ家のような店構えだ。期待と緊張が入り混じる中、重い扉を開けると、食欲をそそるクミンの香りが立ち込めていた。
「おっ、壮大! いらっしゃい」  厨房の中から、Tシャツ姿の気さくな男性――店主が声をかけてきた。壮大は軽く手を挙げて応える。
「予約してた個室、空いてるか?」 「おう、バッチリだよ。・・・へぇ、今日はいつもの女性と違うねぇ」
――はい、ダメ。終了。
 その一言が落ちた瞬間、私の頭の奥で、短く鋭い警報音が鳴った。
(……いつもの女性、ってなに?)
 さっきまで感じていた、料理が美味しいとか、店構えが落ち着いているとか、そういう些細な好印象は、全部まとめて吹き飛んだ。
 いくら友達とはいえ、初対面の連れがいる前で、そんな言い方をするだろうか。
 正直に言えば、私は叫びたかった。
「私、彼の妻です」と。
 でも喉の奥がきゅっと縮こまり、息が浅くなるだけで、声にはならなかった。わかっている。叫べない。
 私が妻であっても、ほんの少し前までは、私たちは赤の他人だった。彼がここに、誰を連れて来ていたとしても、それを責める資格なんて、本当はない。
 それでも。
 壮大の「女性関係」という、一番見たくなかったブラックボックスを、赤の他人に無遠慮にこじ開けられた。そんな感覚だった。
 畳の匂いが、急に重く鼻につく。
 私は、壮大の隣に座っていることが、急にいたたまれなくなって、視線を落とした。揃えた自分の靴の先だけを見つめる。
 頭の中では、勝手な映像が再生される。
 モデル。女優。有名なミュージシャン。
 華やかな女性たちが、この個室で、壮大の隣に座り、自然に笑い合っている光景。
 そこにいる私は、いない。
 代わりにいるのは、肩をすぼめて、言葉も立場も飲み込んだまま、靴先を見ている私だけだった。

「・・・おい、誰だよそれ。適当なこと言うなよ」  壮大が、少し低い声で言った。
「え? だって、お前が誰かを連れてくるなんて珍しいからさ。いつもはマネージャーか、男の連れだろ」
「・・・当たり前だろ。俺が友達の店に、わざわざ女の子連れてきたことなんて、一度もなかったじゃん」
「えっ!!!」
 私は思わず、顔を上げた。店主も「しまった」という顔をしながら、ニヤニヤと壮大をからかっている。
「なんだ、そういうことか! いや、ごめんごめん。壮大があまりにも自然に予約するから、てっきり『常連の誰か』を連れてくるのかと思ったんだよ。・・・お姉さん、ごめんね。コイツが女性を連れてきたの、マジで初めてなんだよ」
 ・・・初めて?  壮大が、このプライベートな空間に、仕事仲間でも男友達でもない「女性」を連れてきたのは、私が初めてだという。
「・・・うるせえよ。早く料理出してくれ」  壮大は耳の付け根を少し赤くしながら、私を個室へと促した。
 個室は、古びたレコードが並ぶ秘密基地のような空間だった。  運ばれてきたスパイスカレーは、色鮮やかで、何種類もの副菜が添えられた芸術品のような一皿だった。本来なら、この香りの重なりや、スパイスの弾ける食感について、民鉄チャンネルの食レポばりに熱く語るべきシーンだ。
 けれど、私の感覚は麻痺していた。  「初めての女子」という言葉が、激辛のスパイスよりも強烈に脳内を刺激し続けている。
「・・・民亜? 口に合わなかったか?」 「い、いえ! 美味しいです。すごく・・・」
 実際、味は素晴らしかったはずだ。けれど、私は自分が今、何を食べているのかさえ怪しいほど、お腹がいっぱいになっていた。それは料理のせいではなく、壮大が私にくれた「特別」という名の隠し味のせいだった。
「・・・嘘、ついて悪かったな。でも、こうして二人で飯食うのも、悪くないだろ」
 壮大は、さらりと言った。  エイプリルフールの嘘が、私の初電話を奪い、そして彼の「聖域」への招待状になった。  スパイスの香りに包まれながら、私は気づいた。  推しという生き物は、本当に、本当にずるいのだ。
 結局、料理の味を詳しく思い出すことはできなかったけれど。  個室の薄暗い照明の下で見た、照れたように笑う壮大の顔だけは、どんな高画質なカメラよりも鮮明に、私の心のメモリーカードに焼き付けられていた。