底辺乗り物オタクの私、推しに見つかりました―推しの推し活が、溺愛すぎる

「どこに泊まろうか?」
 深夜のコンビニ駐車場。
 秘密基地みたいになった車内で、その言葉が静かに落ちた瞬間、私の心臓は一度だけ、正確に跳ねた。
 予想はしていた。
 覚悟も、していた。
 それでも「宿泊」という選択肢が、彼の口から当たり前の段取りとして出てきたことで、今回の新潟行きがただの撮影遠征ではなく、生活の延長線に置かれた旅なのだと理解してしまう。
 私は、自分の中にある一番信用できるもの――
 ストイックすぎるくらいの鉄道理論を、彼に差し出した。
「……私はいつも、新潟駅周辺のホテルに泊まります。発着する電車が見える場所が多いですね。でも……」
 一度、言葉を切る。
「それだと、ずっと窓の外を見てしまって、部屋から出なくなるんです。撮影がおろそかになるので、あえて窓から何も見えないホテルを選ぶこともあります」
 自分でも分かる。
 かなり偏った宿泊論だ。
 でも壮大は、驚いたあとで声を上げて笑った。
「はは。そこまで計算してるんだ。民鉄さん、本当にストイックだね」
 感心したように頷く、その目は真剣で、からかいはなかった。
「姿勢が、ほんと男前だと思う」
 その言い方に、評価の線がきちんと引かれているのが分かって、胸の奥が少しだけ温かくなる。
 ――だからこそ。
 次に彼が口にした提案は、私の思考回路を一瞬で停止させた。
「じゃあさ。鈍行で東京から新潟行くなら、着いてすぐフルで動けるように……新宿か赤羽あたりで前泊しよう」
(……前泊?)
 都内で、前泊。
 それは、新潟に行く“前”から、同じ夜を共有するという意味になる。
 流石に息が止まった。
 それは一線を越えるとか越えないとか、そういう話じゃない。
 私が私でいられなくなる予感が、はっきりした形を持って立ち上がってきた。
「……それは、無理です」
 はっきり言ったつもりだった。
「えー、そう? 俺、寝坊するかもしれないよ。一番列車、逃すかも」
 少し意地悪な声。
 でもそれが本気じゃないことは、分かる。
 私は首を横に振った。
「ここで甘えたら、私はもう……ちゃんと仕事ができなくなる気がするんです」
 カメラマンとして。
 推しの活動を支える側として。
 自分で引いた線を、自分から消したくなかった。
 壮大は一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「……そっか。分かった」
 引き下がり方が、とても綺麗だった。
 残念そうではあったけれど、そこには「試す」色も「押す」気配もない。
 むしろ、私の頑なさごと受け取ってくれたような、静かな納得があった。
 そして今、私はあの夜の自分に「正解だったよ」と言ってあげられる。
 壮大は、寝坊しなかった。
 約束通りの時間にホームに現れ、今は私の右肩に頭を預けて、気持ちよさそうに眠っている。
 平日の始発、高崎線。
 通勤ラッシュへ向かう人波と逆向きに、私たちは北へ進んでいた。
 下りの一番列車。
 車内は驚くほど空いていて、座席を選ぶ余裕すらある。
 ゴトゴト、と一定の振動。
 E233系のロングシートが刻む、安心するリズム。
 帽子を深く被り、マスクとメガネで顔を隠した隣の人が、
 国民的ロックバンド「1825」のボーカルだと、誰も気づいていない。
(……こんな時間があって、いいんだろうか)
 鉄トークをする未来も想像していた。
 でも今は、この沈黙の方がずっと贅沢だった。
 肩にかかる、確かな重み。
 ブラウス越しに伝わる、規則的な呼吸。
 彼がここで眠れるのは、信頼しているからだ。
 それが分かるだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
 空を飛び、名前だけで空気が変わる場所に生きる彼にとって、
 この「誰にも見られない、逆走する各駅停車」は、たぶん避難所だ。
 壮大は時々目を覚ましては、
「……今どこ?」
「明るくなってきたな」
 そう言って、また眠る。
 起きて、少し話して、また眠る。
 旅の途中でしか許されない、贅沢な時間。
 でも、どんな鈍行列車にも終着はある。
 ブレーキ音。
 「高崎、高崎です」というアナウンス。
「壮大さん、着きました」
 小さく声をかけても、彼は動かない。
 私は一瞬だけ迷ってから、彼の右手を取った。
 温かくて、少し硬い指。
 弦を押さえ続けてきた人の手。
「行きますよ。駅そば、間に合わなくなります」
 ぐい、と引く。
 壮大は目を見開き、それから朝日に溶けるみたいに笑った。
「……完全に、民鉄プロデューサーだな。俺」
 心臓がうるさくなる。
 でも、もう引き返さない。
 ホームに降りた瞬間、
 私たちの旅は「移動」から「共有」へと切り替わった。
 立ち上る駅そばの出汁の香りが、
 新しい朝を、静かに迎えていた。