新木場のライブハウスを揺らしていた重低音の残響が、まだ耳の奥で微かに唸っている。
プロのライブカメラマンと同じ空間で、同じ熱量を、同じファインダー越しに射抜くという、あまりにも贅沢な任務。今日という一日が本当に現実だったのか、それとも私が作り出した壮大な白昼夢だったのか。ライブが終わったあとも、感覚はまだ確かな手応えを掴めず、ふわふわと宙を漂っていた。
熱気に当てられた私の様子を気遣うように、壮大は「少し風に当たろう」と言って車を出した。
車の滑らかな加速が心地いい。わずか五分。ライブハウスが密集し、若者たちの喧騒が渦巻くエリアを抜けるだけで、東京の夜は一変する。車は新木場緑道公園のほど近く、潮の香りが濃く漂う静かな路肩に滑り込んだ。
新木場には仕事やライブで何度も来ているけれど、これほど間近に「海」を感じられる場所があったなんて知らなかった。
たった五分でも、車という足を得るだけで、行動範囲は複線化された幹線道路みたいに一気に広がる。
車を降りると、夜の静寂を切り裂くような、けれどどこか心地いい咆哮が空から降り注いだ。
羽田空港へ向かう、あるいは飛び立つ飛行機がひっきりなしに通過する「空の道」の真下だ。
春の夜の帳が下りた濃紺の空。
機体そのものは闇に溶け、巨大な質量を視認することは難しい。けれど、衝突防止灯の赤い点滅と、主翼の端で輝く緑と赤の灯火が、ゆっくり、けれど確かに角度を変えて動いていく。
「夜は、ひんやりしてるくらいがいいな」
壮大は車のボンネットに軽く腰を預けて、空を見上げた。
海風が彼の少し長めの髪を揺らす。ステージの上よりずっと静かで、ずっと自由そうな横顔だった。
「そういえば……夜の飛行機をイメージした曲は、まだ書いたことなかったな」
航空会社のCMタイアップを次々と手がけ、「空の王子」と呼ばれる彼が、今はただ一人の音楽家として夜風を吸い込んでいる。
私は言葉を失い、飛行機の灯りが空に引いていく、目に見えない線を追っていた。
数千人の歓声から切り離された沈黙。
それさえも旋律の一部みたいで、贅沢な時間が流れていた。
その静けさを、壮大がふいに破る。
「なあ、民亜。休みって、水曜固定じゃないよな?」
唐突な問いに、思考回路が落雷を受けた信号機みたいに明滅する。
「え? あ、ええと……」
「ちゃんと答えないと、飛行機見せない」
そう言って笑う。
肩口に何か言いかけた手が一瞬止まり、結局触れないまま下ろされたのが、なぜか妙に印象に残った。
「……もう一日は、シフト制なので、定まってません」
「じゃあ、来週は?」
「水曜と木曜がお休みです」
「お、ちょうどいい。新潟な」
「……は?」
あまりにも斜め上の行き先に、私の脳内では勝手にJRの時刻表がめくられ始める。
東京から新潟。上越新幹線なら一時間半強。でも、彼の口調からは、単なる観光以上の「目的」が透けていた。
「民鉄さんのチャンネル、昨日も見てたんだけどさ。新潟交通のバスセンターのスイッチバック。あれ、見事だったよな」
思わず息を呑む。
「でも新新潟駅前に、新しいスイッチバックができたろ? まだ撮ってないだろ」
少年みたいに目を輝かせて続ける。
「何回も新潟行ってるの、知ってる。編集見てても、あの切り返しへの執着、すごいし。でも……新しいのは、まだだよな?」
……完敗だった。
私の癖も、狙っている動線も、動画の奥に隠した好みも、全部見抜かれている。
「行くよな?」
指先で、軽く、頬のあたりを示すような仕草。触れてはいないのに、なぜか逃げ場がない。
「……近いです」
「無理なら言え。でもさ」
同じ空を見上げたまま、彼は静かに言った。
「次は新潟、行こう。スイッチバックを見よう」
飛行機の灯りが、彼の瞳の奥で星みたいに瞬いた。
私は、ただ小さく頷くことしかできなかった。
再び車に戻る。
深夜の湾岸道路を滑るように走る車内で、私の心はまだ「新潟、行こう」という言葉の余韻で揺れていた。
「あの……本当に、行くんですよね?」
「当たり前だろ。もう、どう行くかの段階」
「新幹線なら……」
「ブブー。鈍行」
即答だった。
「民鉄さん、いつもそうだろ。遠回りして、時間を味わうやつ」
「半日以上かかりますよ」
「それがいい」
高崎駅、駅そば、シャッターポイント。
私しか知らないと思っていた細部を、彼は全部知っていた。
「今回はさ、俺を客席に座らせてよ。民鉄プロデューサーの旅に」
推しが、私の活動を「推している」。
その事実が、胸の奥で静かに熱を持つ。
「決まり。水曜、朝一」
コンビニに寄り、二人分のコーヒーを買う。
車内は柔らかな照明に包まれ、そこは恋というより、誰にも邪魔されない作戦室みたいだった。
路線図を広げ、撮影計画を詰める。
ひと段落した頃、壮大がふっと声を落とす。
「……で。どこにとまろうか?」
越えない線が最初から引かれているからこそ、一緒に行くという事実だけが、はっきりと残った。
夜の湾岸を走る車は、新潟へ続く見えないレールの上を、もう静かに走り始めていた。
プロのライブカメラマンと同じ空間で、同じ熱量を、同じファインダー越しに射抜くという、あまりにも贅沢な任務。今日という一日が本当に現実だったのか、それとも私が作り出した壮大な白昼夢だったのか。ライブが終わったあとも、感覚はまだ確かな手応えを掴めず、ふわふわと宙を漂っていた。
熱気に当てられた私の様子を気遣うように、壮大は「少し風に当たろう」と言って車を出した。
車の滑らかな加速が心地いい。わずか五分。ライブハウスが密集し、若者たちの喧騒が渦巻くエリアを抜けるだけで、東京の夜は一変する。車は新木場緑道公園のほど近く、潮の香りが濃く漂う静かな路肩に滑り込んだ。
新木場には仕事やライブで何度も来ているけれど、これほど間近に「海」を感じられる場所があったなんて知らなかった。
たった五分でも、車という足を得るだけで、行動範囲は複線化された幹線道路みたいに一気に広がる。
車を降りると、夜の静寂を切り裂くような、けれどどこか心地いい咆哮が空から降り注いだ。
羽田空港へ向かう、あるいは飛び立つ飛行機がひっきりなしに通過する「空の道」の真下だ。
春の夜の帳が下りた濃紺の空。
機体そのものは闇に溶け、巨大な質量を視認することは難しい。けれど、衝突防止灯の赤い点滅と、主翼の端で輝く緑と赤の灯火が、ゆっくり、けれど確かに角度を変えて動いていく。
「夜は、ひんやりしてるくらいがいいな」
壮大は車のボンネットに軽く腰を預けて、空を見上げた。
海風が彼の少し長めの髪を揺らす。ステージの上よりずっと静かで、ずっと自由そうな横顔だった。
「そういえば……夜の飛行機をイメージした曲は、まだ書いたことなかったな」
航空会社のCMタイアップを次々と手がけ、「空の王子」と呼ばれる彼が、今はただ一人の音楽家として夜風を吸い込んでいる。
私は言葉を失い、飛行機の灯りが空に引いていく、目に見えない線を追っていた。
数千人の歓声から切り離された沈黙。
それさえも旋律の一部みたいで、贅沢な時間が流れていた。
その静けさを、壮大がふいに破る。
「なあ、民亜。休みって、水曜固定じゃないよな?」
唐突な問いに、思考回路が落雷を受けた信号機みたいに明滅する。
「え? あ、ええと……」
「ちゃんと答えないと、飛行機見せない」
そう言って笑う。
肩口に何か言いかけた手が一瞬止まり、結局触れないまま下ろされたのが、なぜか妙に印象に残った。
「……もう一日は、シフト制なので、定まってません」
「じゃあ、来週は?」
「水曜と木曜がお休みです」
「お、ちょうどいい。新潟な」
「……は?」
あまりにも斜め上の行き先に、私の脳内では勝手にJRの時刻表がめくられ始める。
東京から新潟。上越新幹線なら一時間半強。でも、彼の口調からは、単なる観光以上の「目的」が透けていた。
「民鉄さんのチャンネル、昨日も見てたんだけどさ。新潟交通のバスセンターのスイッチバック。あれ、見事だったよな」
思わず息を呑む。
「でも新新潟駅前に、新しいスイッチバックができたろ? まだ撮ってないだろ」
少年みたいに目を輝かせて続ける。
「何回も新潟行ってるの、知ってる。編集見てても、あの切り返しへの執着、すごいし。でも……新しいのは、まだだよな?」
……完敗だった。
私の癖も、狙っている動線も、動画の奥に隠した好みも、全部見抜かれている。
「行くよな?」
指先で、軽く、頬のあたりを示すような仕草。触れてはいないのに、なぜか逃げ場がない。
「……近いです」
「無理なら言え。でもさ」
同じ空を見上げたまま、彼は静かに言った。
「次は新潟、行こう。スイッチバックを見よう」
飛行機の灯りが、彼の瞳の奥で星みたいに瞬いた。
私は、ただ小さく頷くことしかできなかった。
再び車に戻る。
深夜の湾岸道路を滑るように走る車内で、私の心はまだ「新潟、行こう」という言葉の余韻で揺れていた。
「あの……本当に、行くんですよね?」
「当たり前だろ。もう、どう行くかの段階」
「新幹線なら……」
「ブブー。鈍行」
即答だった。
「民鉄さん、いつもそうだろ。遠回りして、時間を味わうやつ」
「半日以上かかりますよ」
「それがいい」
高崎駅、駅そば、シャッターポイント。
私しか知らないと思っていた細部を、彼は全部知っていた。
「今回はさ、俺を客席に座らせてよ。民鉄プロデューサーの旅に」
推しが、私の活動を「推している」。
その事実が、胸の奥で静かに熱を持つ。
「決まり。水曜、朝一」
コンビニに寄り、二人分のコーヒーを買う。
車内は柔らかな照明に包まれ、そこは恋というより、誰にも邪魔されない作戦室みたいだった。
路線図を広げ、撮影計画を詰める。
ひと段落した頃、壮大がふっと声を落とす。
「……で。どこにとまろうか?」
越えない線が最初から引かれているからこそ、一緒に行くという事実だけが、はっきりと残った。
夜の湾岸を走る車は、新潟へ続く見えないレールの上を、もう静かに走り始めていた。
