底辺乗り物オタクの私、推しに見つかりました―推しの推し活が、溺愛すぎる

「民亜!」
 ライブ写真撮影の特訓として訪れたライブハウスの楽屋で、唐突に私の名前が響いた。
 反射的に肩が跳ねる。条件反射だ。
 私の名前を、下の名前で、しかも当然みたいに呼び捨てにする男なんて、この世界に一人しかいない。
 推しで、――そして夫。
 そう思い直してみても、胸の奥に落ち着く感触はまだない。
 呼ばれた瞬間にまず浮かぶのは、昔から変わらない「推し」の輪郭で、そのあとから少し遅れて、「ああ、そうだ」と現実が追いついてくる。籍を入れたという事実が、まだ身体の動きに馴染んでいない。
 目の前に立つ壮大は、相変わらず不敵な笑みを浮かべていた。
 何か変だ。絶対に何かおかしい。
 そう思うのに、彼がここにいること自体は、あまりにも自然で、疑う余地がない。
 楽屋挨拶が終わり、スタッフさんが「では、カメラマンの皆さんはこちらへ……」と私たちを楽屋の外へ誘導しようとした、その瞬間だった。
 壮大がすっと片手を挙げた。
「あ、この子。うちのカメラマンなんで」
 声は低く、静かで、でも拒否の余地がない。
 スタッフさんは一瞬だけ目を瞬かせたが、相手は「1825」の壮大だ。
「あ、そうだったんですか! 失礼しました。では、民亜さんはそのまま残ってください」
 それだけ。
 たった一言で、私はこの楽屋という聖域に残る権利を得てしまった。
 心臓が少し遅れて強く鳴る。
 スタッフじゃなくて、嫁だと思っているのかどうか、なんて考えが一瞬よぎる。でも、壮大がそんなことを考えるタイプじゃないのは、もう分かっている。彼は決めたら、そのまま動くだけだ。
 気づけば、駅へ向かうはずだった五人の「今日限定カメラマン」の一人が、たった一人の「壮大の隣にいるカメラマン」になっていた。
 緊張が解けるどころじゃない。
 心臓は、いすみ鉄道の急行列車みたいなリズムで暴れているのに、当の本人は至って自然に、「ほら、座れよ」と私の隣を陣取った。
 その流れのまま、楽屋打ち上げに私も加わることになった。
 テーブルに並ぶ缶飲料と軽食。プルタブが開く乾いた音があちこちで響き、乾杯の声が重なる。
(幸せすぎる……でも、ここでファンの顔をしてたらダメだ)
 私は今、カメラマン民亜。
 そう言い聞かせても、視界の端に映る壮大の横顔が眩しすぎて、何度も意識が引き寄せられる。
 彼は、私が一人にならないように、絶妙なタイミングで話題を振った。私が答えやすい鉄道の話を混ぜ、輪から外れない位置に自然と置いてくれる。その距離感が、近すぎず、遠すぎず、でも確実に守られている。
「そうだ。彼女、今日がライブ撮影初めてなんだよ。……ほら、プロに聞いておけよ」
 壮大はそう言って、今日のライブを本職として撮っていたプロのカメラマンさんを輪に引き入れた。
「ライブ写真のコツ? 一番大事なのはな……」
 動きの予測、光の読み方、立ち位置。
 私は夢中で耳を傾けた。
「あの、逆光の時って、どう対応されてますか?」
 自分でも驚くほど、具体的な質問が自然に出てくる。
 撮り鉄として積み上げてきた感覚と、今聞いたプロの技術が、頭の中で新しい回路として連結されていく。シャッターを切っていない時間さえ、学びになっていた。
 打ち上げが後半に差し掛かった頃、可憐で都会的な雰囲気の女性が壮大に声をかけてきた。
「ねえ壮大、この後の打ち上げどうするの? 参加しないなら、私の車で送ってあげるけど」
「……まだ決めてねえよ」
 視線も合わせずに、素っ気なく返す。
 胸の奥が、少しだけざわついた。嫉妬だと決めつけるほど子どもじゃない。でも、目は自然と離れなかった。
 その直後、バンドメンバーが私に身を乗り出してくる。
「さっき撮った写真、見せてよ!」
「え、あ……はい」
 液晶に映る写真を一枚ずつめくるたびに、「最高」「分かってる」と声が上がる。
「今度、専属で撮ってよ。LINE交換しよう?」
 その言葉を遮ったのは、隣の男だった。
「ダメ。民亜は、うちの専属カメラマンだから」
 冗談めいた口調なのに、揺るぎがない。
 胸の奥が、じんわり熱くなる。
 やがて、またあの女性が戻ってきた。
「打ち上げ、どうするの?」
「……参加する」
 一瞬だけ、そう答えた壮大だったが、すぐに立ち上がった。
「民亜、行くぞ」
「え?」
「明日スタジオ。飲めねえし、朝早い」
 そう言って、私の背中を押す。
 気づけば、さっきの誘いも、余計な視線も、全部置き去りにしていた。
 出口へ向かう薄暗い廊下。
 誰もいないのを確認した壮大が、歩きながら私の頭をくしゃりと撫でる。
「よく頑張った。ちゃんと見てた」
 その一言で、全部が報われた気がした。
 帰る場所は同じ。
 それを言葉にしなくても、もう分かっている。
 ライブハウスの熱気と彼の体温が混ざった夜は、シャッターを切らなくても、私の心に確かに現像されていた。